koc2022
KOC2022みた。
今年も面白かった。
みて思った事を書いておこう。
ちなみに去年のKOCについて書いた記事はこちら。
〇「バカにするべき劣った人物」が出てこなくなった。
「バカにするべき劣った人物」、というものがいよいよコントに出てこなくなった。ほんとに変わったものですね。
僕の好みに近くなってきてて個人的には嬉しいです。昔、ちょこちょこコントを書いてた時もそういうのばっかり書いてたので。
・バカと理解不能
一方で、「理解不能な人物」は結構出てきていた。「バカ」のコントと「理解不能」のコントは種類が違う。
「バカ」が出てきたコントは、ロングコートダディ、や団2本目、ビスケットブラザーズ2本目くらいかな?
ビスブラ2本目については、コントの前半では「バカ」というよりも「理解不能すぎるやつ」だったように思うんですが、最終的には「バカなやつだった」という展開におちついていた。だけど、人をバカにして笑いたいというよりも「理解不能なやつ」が「理解できるバカ」に変身してくれたっていう安心感のほうが強く印象に残ったコントだったでしょう。
一方、や団の1本目、最高の人間のコントに出てくる人物は、バカというより理解不能だった。
ロングコートダディは「理解不能」と「バカ」の両方を絶妙なラインで兼ねていた。兎さんの表現力が凄い。
「バカ」が出てこなくなった影響として、ツッコミも「被害者だから否定的な反応をする」というパターンが増えた。
人のことをバカにせずにどうやって面白いコントを作っていたんだろう。すっごく難しいことだと思うんですが、皆さん見事に成功していらしましたね。偉大。
〇バカにするべき人物の2種類
昨今のお笑いはどんどん、人を傷つけない笑いになっていっているのでしょうか。「劣った人物」があんまりでてこなかった今回のKOCは人を傷つけないものになっていたのでしょうか。
「バカにするべき人物」というものには何種類かがあるのかなと思うんです。
・ツッコミもお客さんもバカにするだろうと想定される人物
ふつうにバカキャラ。上記のようにロングコートダディ、や団2本目、ビスブラ1&2本目が該当。
最高の人間の吉住さんのは珍しくて、後段で前段の自分をバカにするタイプのツッコミを入れている。
・登場人物は誰もバカにしていないが、お客さんにはバカにされることを期待している。
これは結構登場していた。……と思う。僕の心が汚れているからそう思ったのかも。
クロコップ、ネルソンズ(とくに和田さん)、かが屋、いぬ、や団、コットン、ニッポンの社長(とくにケツさん)が該当する。
コント内の人物同士では誰も互いをバカにしていない。(かが屋のコントの“大将”は、あの2人をバカにしてたかも。)
これらは、登場人物同士ではバカにしていないが、お客さんにはバカにしてもらうことを期待して作られているように感じられます。
珍しいのは、コットンの1本目。
設定からすると、本来、劣っていてバカにされるべき人物は、西村さん演じる男性であった。なんせ浮気したうえに証拠の隠滅をはかっている。悪い奴。倫理的に道徳的に劣っている。
しかし、このコントは、きょんさん演じる女性がボケで、女性にリアクションしている男性がツッコミに見えます。
道徳的なことだけ着目すれば、このコントのボケは浮気した男性のほうのはずです。現に、ベッドにスプレーをするシーンや、「これがある時点でクロかと思いますよ、コラッ」といってセリフは、倫理の基準では、女性が男性にツッコミになっている。
もちろん、証拠隠滅のプロぶりをこれみよがしにアピールする点ではきょんさんがボケなんですけどね。これみよがしにプロぶりをアピールするのはよくないという通念があるので(くだらない通念だ)。例えば掃除のプロが掃除のテクニックを紹介するのはいいけど、「これみよがし」が過剰だとボケになる。ギターのプロでも大工のプロでもエアコン取付のプロでもなんでもいい。西村さん演じる男性の態度しだいでは、「バカ」が出てくるコントになっていたはずだが、そうしていない。
で、話は戻って、お客さんにバカにしてもらおうという人物は依然、たくさん登場していたんじゃないかと思います。登場人物がバカにしてなくても僕はバカにして笑ってました。こういうお笑いが「人を傷つけない笑い」かどうかはよくわからない。僕の心が汚いだけかもしれない。加えて、人を傷つけない笑いのほうが優れているのかどうかも僕にはよくわからない。
〇過剰にドラマチック
登場人物にはバカにされないが、お客さんにはバカにされる人物たちは、どのようにバカにされるのか?
いろんなやり方がありますが、今回も「過剰にドラマチックな演出」というやり方が多かったですね。
昨年も、蛙亭のホムンクルスの戦闘シーンや空気階段1本目(火事)、ザ・マミィ一本目(喋ってるおじさん)なんかに見られました。過剰な演出という点ではそいつどいつのホラー演出も該当するように思います。面白かったですね。
昔からあるやり方ですが、今年もクロコップ、コットン(1,2本目両方)、いぬ、ビスケットブラザーズ(1本目)、最高の人間などたくさん使われていて、どなたも面白かった。
〇音楽
過剰演出のために音楽がたくさん効果的に使われていてどれも素敵でした。
・クロコップ
後で知ったのですが、クロコップの音楽は、遊戯王で実際に使われていたやつだったんですね。遊戯王を知らなくても楽しめたんですが、知ってたらもっと笑えたのかも。
しかしあのゲーム、1回でもホイが成功したら勝ちなんでしょうか。それとも最終的にホイが成功した回数が多い方が勝ちなんでしょうか。1回の成功で決着ならあのゲームって先攻有利すぎますよね。
あと、2人は音楽にノリノリになってデュエルをしていましたが、この音楽ってあの場所で実際に鳴ってるんでしょうか。元ネタの遊戯王はたぶん、音楽を流してそれにのってデュエルをするゲームじゃないですもんね? アニメの演出としてこの曲が流れてただけですよね?
作ってる側は見てる人間の何倍も考えてるものなので、きっと設定はあるのでしょうが、こまかいことの説明に時間を使うよりも中身を詰め込むことを優先なさったんでしょう。それで決勝にいったのだから正しい判断なんですが、ちょっと気になってしまった。
他に、いぬ、コットン2本目、ビスケットブラザーズ1本目、最高の人間でも過剰演出を意図して効果的に音楽が使われていたように思います。
ニッポンの社長のコントも音楽が効果的で面白かったですが、過剰演出というよりは、お約束の強調という感じでしょうか。
・ネルソンズ
ネルソンズのコントでも徒競走の場面で使われていましたが、花を取れた和田さんの「よかった」で音が消えるのがいいですね。
音楽じゃなく和田さんの「よかった」を軸に作られていることが分かります。むしろ、感動的にするまいという意図で使われていた。
〇過剰演出・比喩、または象徴、または代理。
今回のKOCをみて、むかし読んだ、ジェームズ・バリーの「ピーターパン」という小説を思い出しました。おはなしの中で、ピーターパンが指ぬき(裁縫道具らしい)とキスを勘違いするくだりがあります。そして、指ぬきをキスに代理させ、ピーターパンと女の子が互いに「指ぬき」を与え合う描写がされていたんですよね。美しい話でした。
こういった「あるモノが、別のモノの代理になっている」という手口も、過剰演出の一環として多く見られました。こういうのはとても好きなので楽しめました。とくにオチで多かった。
・クロコップ
ゲームの終了で終わってもよかったはずですが、ヘリで飛び去るライバルを見上げて、空にむかって「ホイ」の動作をすることをオチにしています。たぶん、「勝つぞ」的な心理の比喩表現になっています。おしゃれな終わり方でかっこいいし面白い。
・かが屋
序盤はたどたどしくかった女性のサディストの演技が、オチでは上手になっている。凄い。
男性からの好意を確信できたことによる自信と、男性を喜ばせたい献身と愛を象徴しているように読み取れます。
その後、加賀さん(男性役)が大将に会釈してオチます。「(次の店に)いくよ!」という声に、嬉しそうに「はい!」と答えて終わってもよさそうなものです。それを、彼のこらえきれない喜びを大将への会釈で表現するのって凄いですよね。めっちゃおもろい。
・いぬ
愛の強さの誇示が腹筋運動に代理されていました。感動的でしたね。
・コットン1本目
コットン1本目のラストは、例えば「安心して私に任せてください」などとという代わりに、同級生になりきって見せて男性の声で「いくぞ同級生」と言い放つ。頼もしさや仕事人ぶりが象徴されている。かっこいい。
・コットン2本目
101回目のプロポーズよろしく(古いですね、ワッシャーかナットかなんかの金具を結婚指輪代わりにしたドラマが昔ありました)、煙を指輪に見立てていました。
こういった、ドラマや映画みたいな演出が随所に見られて楽しかったです。
なんとなく、比喩表現だとか象徴だとか、代理だとか、そんな感じの言葉で書きましたが正確な用語があるのかもしれません。不勉強で申し訳ない。
〇異常な関係
昨年のKOCが「異質な他者」というテーマで読み解かれたことを引き継ぐなら、今回のKOCは「他者との異常な関係」という読み解きかたができるのかもしれません。
・コットン
今回のKOCは距離感にまつわるコントが多く、その中でも特徴的だったのがコットンの2つのコントだと思います。
なんせ、テーマが「浮気」と「煙草」。
わりあいセンシティブなものを選んでいます。浮気や煙草という、現代日本でよくないものとされるモノが2人の関係を介在するために、両者の距離感が通常以上の親密さを産んでるように見えます。2本とも、共犯関係が特殊な距離感を演出しているように感じられました。上手い。
〇異常な関係と臆病な距離感
・いぬ
道徳的にはあの2人の関係を異常だとは言ってはいけない。ですが、しかし、あの2人には、恋愛が似つかわしくなく思えてしまう。
そして、それをあの2人も自覚しているのでしょう。
いぬのお二人のコントに出てきた彼、彼女の、当初の距離感は「大丈夫です」に集約される。
拒絶はしていない。しかし明確に受け入れもしていない。決定的な関係に踏み込めない2人の臆病さがよく表れている。よくこんなセリフを思いついたものです。面白すぎますね。
・かが屋
マゾヒストの男性と、その男性への好意から無理して不慣れなサディスト演技をする女性ということでまあ異常っちゃ異常なんですが、このコントの核は、「すれ違い」だけでなく「すれ違いの解消」にもあると思います。
ところで、このコントを「アンジャッシュみたい」とする評価を見かけました。あんまり同意できません。
第一に、すれ違いの仕組みはシェイクスピアなんかでもよくある古典的な喜劇の手法だということ。例えば「お気に召すまま」では、ある男性が別の男性に恋の相談をしますが、その相談相手こそが男装した当の想い人である、というシーンがあります。めっちゃニヤニヤさせられます。面白いです。「空騒ぎ」なんかもそうですね。ほかにもたくさんあったはず。
すれ違いの仕組みはアンジャッシュのお二人だけのものではありません。演劇や戯曲にはあんまり詳しくありませんが、シェイクスピアに限らず喜劇ではけっこうお決まりの技法のようです。
第二に、アンジャッシュのコントは、すれ違ってしまったせいで、互いの言葉が謎かけのように二重の意味もち、解釈がズレてしまうという点が最高に面白いということ。アンジャッシュのお二人はすれ違いの状況で作り出せる面白さの中でもかなり限定的なやり方に絞って特化し、傑作を量産できた点こそが凄いんだということ。
すれ違い自体の面白さはアンジャッシュのやり方以外にもさまざまにあり、今回のかが屋のコントはその好例だったということです。
すれ違いの要素があるだけで「アンジャッシュ」と評する風潮が嫌いで嫌いで仕方がありません。ほかの芸人さんがすれ違いコントをやりにくくなっちゃいますからね
(もちろんそんなつもりで評してるわけじゃないでしょうし、悪意もないのでしょうから、別に責めたいとも思わないのですが。)
このコントでは当初、「女王様みたいな女上司と男性部下」という体裁ではじまります。この時点ではバカとリアクター(反応する人)です。しかし、実は女性が臆病かつ不器用すぎるゆえにこうなってしまっていることが明かされます。
・ビスケットブラザーズ2本目
ビスケットブラザーズ2本目のダイスケも臆病かつ不器用すぎるためにあのような手段に及んでいます。
ぜんぜんそんな感じはしませんけど。たしかに彼は臆病で不器用かもしれませんが、やり方が大胆すぎる。
〇世間との関係。世界がそれを愛と呼ばなくとも、決然とあること。
異常な関係は、かが屋のお二人演じる男女が大将に非難されたように、
・世間の無理解にさらされるか、
・あるいは無理解にさらされることを事前に創造して関係性を結ぶことを諦めちゃう。
ということになりがちです。各コントにおける、そのあたりの機微の描かれ方も面白かったです。
・いぬ
いぬのコントにおいて、あの男女のほかに人物は登場しないので、あのコントにおける「世間」は直接には登場しません。
しかしあの男女が臆病であったのは、恋愛への自信のなさだけが原因ではなかったでしょう。互いに、相手の心のなかに「世間一般の常識」を読み取っていたんじゃないかと思います。相手の心の中にあるであろう、「世間一般の常識」によれば、自分なんかが恋などするものではないと判断されるであろうと。
夢の偶然が導き、その常識を克服し、決然と思いを伝えあうに至りました。
たぶんあの2人は、たまに街で見かける、ちょっと妙な取り合わせのカップルになっていくのでしょうか。このコントが世界中の男女に勇気を与えて、街中がちょっと妙な取り合わせのカップルであふれればよいなと思います。
・かが屋
このコントの序盤の面白さは女性の臆病さと不器用さにありましたが、実のところ、男性も臆病でした。自分たちの世間的には理解されにくい悦びに胸をはることができなかったですもんね。
しかし、大将が女性を非難すると、彼女を守るために決然たる態度を取れるようになる。かっこいい。
このコントはきちんとお笑いとしての質を担保しながら、男性は自分の世間への気後れを、女性は自分の臆病さをそれぞれ克服するという2人の人間の成長の物語になっている。なんでそんなことにしたんだろう。面白すぎる。
公衆の面前でSMを行えるという変化が成長かどうかは分からない。女性を非難した大将は、多少無理解かもしれないが、親切ではあっても悪い奴ではない。しかし、物語のフォーマットとしては成長物語のそれになっています。すごい。
・コットン
コットンのコントは上述のように、1,2本目ともに共犯関係から始まっています。
互いの異常な関係が世間に受け入れられることは恐らくハナっから企図しておらず、しかしお互いの間ではすでに受け入れられているという妙な安心感が、独特の魅力ある世界観を構成していたように思います。彼、彼女らは決然とする必要さえ感じていない。こういうコントがウケてしまったあとでは、誰かが拒絶されるタイプのコントはウケにくくなってしまうでしょうね。順番が奥のほうでよかった。ニッポンの社長が最下位だったのは順番の影響もあったのかなあ。
・ニッポンの社長
ニッポンの社長のコントに登場した、ケツさん演じるシンイチ君は、辻さん演じる科学者とは何の関係も結んでいない。毎回違うやつがケツさんのもとに訪れてもコントの内容は一切かわらない。
科学者は、ケツさんを必要としない「世間」を象徴しているだけです。このコントには異常な人間関係は登場しない。ケツさん個人と世間の関係のコントになっている。
その内容は、ケツさんが決然と世間に対峙しようとするその決意が毎回挫折するというもの。まるで作ったかのように、ここまでのいくつかのコントのアンチテーゼのようになっている。
この世界観では、いぬや、かが屋の男女は決然とした瞬間に相手に振られ、ビスケットブラザーズの決然としているセーラー服男は野犬に食われて死ぬ。クロコップの彼は決然とヘリを見送ったあと、運動部のヤンキーにケツを蹴られるなどする。
「お前らに特別な物語など与えられないのだ」と。「この世間において、お前らみたいなモンが決然とする居場所は存在しないのだ」と。
そもそもが、音楽や「シンイチ君」という名前の元ネタになっている新世紀エヴァンゲリオンというアニメが、少年と世間の関係を描く作品だったと思う。僕は見てないんですが、SNSで見かけた感想によると、シン・エヴァンゲリオン劇場版の完結編は「いい加減大人になんなよ」みたいなお話だったという。少なくともそう感じた人がいるストーリーらしい。であれば、今回のニッポンの社長のコントこそが、シン・シン・エヴァンゲリオンだったのではないか。少年は決然としてはいけない。少年は神話になるのではなく、単に凡庸な大人になるべきなのではないか。とうぜん、冗談で書いてるんですけど。
・最高の人間
このコントに世間というものは見えてこないのですが(新入社員たちはどんな反応をしていたのだろう?)、吉住さんが、「異常な関係」に対して決然とした態度をとったコントではあったと思います。ただ、それ以上に岡野さんが示した決然さが凄かった。
みようによっては、岡野さんが決然と欲する異常な関係を、吉住さんが代表する「世間的な価値観」がたたき潰すコントということだったのでしょう。このコントでは、異常な関係が敗北します。ニッポンの社長のコントに近い。
決定的に違うのは、「決然と異常な関係に踏み込んだ後の、破綻のストーリー」だということ。これをほかのコントに当てはめてみる。
例えばクロコップの場合、
・ホイリストという謎の競技者が紹介され、両者ともこの競技にのめりこんでいる。
・片方が競技を否定する
・デュエルにのめりこんだ過去がフラッシュバックし(この部分が今回のKOCで実際に披露した場面に相当する)
・否定したことを撤回するのか、撤回しないのかが問われる。例えば例の音楽が鳴りだす。
・撤回しない。例えば「意味なき行動」が永久に発動、音楽は止まり、今後、デュエルと関係のない人生を送る。
例えばいぬ、かが屋、コットン2本目の場合、
・筋トレやSM、タバコを介した恋愛関係が紹介される。
・その異常性を原因に、片方が恋愛関係の終了を申し出る。
・回想シーン(今回のネタ部分)
・否定の撤回が問われる。
・撤回しない。例えば「大丈夫じゃないです」「パワハラはやめてください」などと宣言される。
このコントのネタ順が最後だったのは、番組の構成としても素晴らしかったわけだ。クジかな? だとしたらすごい素敵な偶然。
一連のコントは「異常な関係→決然たる決断が挫折する(ニッポンの社長)」または「異常な関係に決然と踏み込むこと→関係の破綻(最高の人間)」という順番で並べることができるということですね。できるからどないやねんという話ですが。
どないやねんついでにもうちょっというと、ネルソンズ、ビスケットブラザーズ1・2本目、や団1・2本目は異常な他人との出会いの部分を描写している。
・「恋愛関係に横やりを入れてくるヤツとの三角関係(ネルソンズ)」
・「セーラー服にブリーフの人との共闘関係(ビスケットブラザーズ1本目)」
・「女友達であることと恋人であることを使い分ける男性との関係(ビスケットブラザーズ2本目)」
・「ドッキリが非常識な人物と、殺人経験の過去がありそうな人物の友人関係(や団1本目)」
・「外すことがある気象予報士と暴力的なぬいぐるみアクターと、予報が外れたときに出会う自暴自棄すぎる人物との関係(や団2本目)」、
こういった関係が常態化したコントがあるとすれば、それはそれで面白そう。彼・彼女らは、この異常な関係に、世間を気にせず決然とコミットするかどうかが問われることになるのでしょう。
逆に、いぬやかが屋、コットン2本目の男女も「異常な他者との出会い」という形でコントを作ることができたでしょうね。そういうのを想像してみるのも面白いと思います。
〇終わり
あと、Twitterでも書いたんですけど、「違和感あるやりとりを3回くらいやって、3回目で、意外性のあるツッコミフレーズとともに設定をバラす」っていうコントがなかったですね。ちょっと前までみんなやってたのに。
しいていうならかが屋のお二人のコントが、女性が自らバラシをやってたくらいです。これもそうとう変則的。
コントがどんどん変化しているように思います。うすでに来年のKOCが楽しみだなあということで、今回は以上です。ありがとうございました。
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