政治とお笑いとネポティズム
〇渋谷の喫茶店
もう10年近く前になるでしょうか。ある芸人(芸人Aとしましょう)との会話を、今でもたまに思い出します。
たしか渋谷の喫茶店でのできごとだったと思います。
芸人Aさんには当時、いわゆる座付き作家的なポジションの若手構成作家(作家Bとします)がいて、その作家さんの話をしてくれました。
芸人A曰く、作家Bさんがある時、吐き捨てるように「メディアの世界は能力よりコネで売れてるやつばかりだ」と批判的に言っていたそうです。
現実には色んな人がいるのでしょうが(僕もよく知らん)、作家Bさんからの見え方はそうだったのでしょう。
その話をする芸人Aさんは楽しそうで、また、作家Bさんの批判に同調しているようでした。
〇政治
最近、コロナや五輪のこともあって、政治への不信・批判的な意見が、これまで以上に目に付くようになりました。
いろんな思想、意見の方がおられるでしょうが、僕個人の印象をいえば政府が国民を充分に優先してくれているというふうには思えていません。
僕のことよりも、内部や友だちの方々を優先しているように見えています。
(あんまり政治のことはよく知らないので、しっかり勉強すれば意見は変わるのかもしれませんけどね)
(また、こういう優先順位の付け方がどのくらい悪いのかということには、いろんな価値観があるのではないかと考えています。『富裕と病気、身内と狂気』みたいな記事を、いずれそのうち書きたいなと思っています)
政治に限らず、世の中はそういうものなんでしょうかね。だとしたら残念。
誰もが、「みんなが公平に平等に」ということよりも「自分や自分の身内を優先したい」と思ってしまうものなのでしょう。
偉い人々は僕のことなんて、あんまり「身内」と思ってくれていないんだろうなと感じてしまっています。
なんでそんなことになってしまうんでしょうかねー。嫌だなあ……。
……ということ考えていたときに、思い出したのが10年くらい前の渋谷の喫茶店での会話だったんです。
〇渋谷の喫茶店2
話を渋谷の喫茶店に戻します。
作家Bさんの批判的意見の話のあと、芸人Aさんはこんなことも話してくれました。
そのちょっと前に、芸人Aさんがなんかの番組の決勝に進出し、しかし決勝で惜しくも敗れ、2位になってしまうということがありました。
その時に、作家Bさんは泣いて悲しんでくれたそうなんです。
作家Bは「絶対に芸人Aさん(が所属するグループ)が一番だった」と号泣しながら言ってくれたそうです。
その様子は芸人Aさんの胸をたいそう打ったらしい。
そらそうですよね。
自分のために悔し泣きをしてくれる仲間がいるってすばらしい。美しい。
その時Aさんは心に誓ったそうです。「私が売れてBを食わせる」と。
午後の喫茶店でそう言い切るAさんの姿は、とてもかっこよかったです。
僕は他人にくらべて感情を表に出すのが苦手なので、そうやって人のために泣けるBさんが羨ましいなと思ったのを覚えています。
いい話ですね。
え? いい話かな?
あなたが、あなたのコネで作家Bを食わすワケ?
さっきの批判と、あなたの決意は矛盾しているのではないですか??
整合性が破綻していませんか?
たった1杯のコーヒーすら飲み干さないうちに。そのコーヒーが僕の舌の根も潤しきらないうちに。
他人のコネは悪くて自分のコネは正義なの?
〇無数のさざ波とその干渉
いや、ごめんなさい。いい話だとは思っているのです。本当に。
ただ、話された順番が順番だけに、「嘘やん」とつっこみそうになってしまいました。
とっさの判断でつっこまなかった。我慢できてよかった。
でも、なんかこう、深く胸に沁みました。
「そういうことなんだろな」と。
誰もがみんな、身内びいきをしている。
自分が直接手を下す身内びいきはもちろんのこと、ひいきするヤツがひいきすることにもひいきしている。ぜひともひいきすべきだというひいきをしている。
たとえば、僕が芸人Aが決意した作家Bへの身内びいきを、「美しい」と支持してしまうように。
1人1人のちょっとした身内びいきは小さな波紋のようなもののように思います。
1つ1つの波は小さなものです。
けれど、波は、別の波とぶつかったとき、より大きな波をうみます。
(※逆相の波も理屈の上ではありえるし、現実にもあると思うけど割愛)
きっと、原始時代から現代にいたるどこかで、無数の波がぶつかることで極大の波高に至った「権力の地点」が生まれた。
それが現代では、例えばBさんが憎んだ「メディア」の権力であり、僕が不信感を拭えない「政治」の権力のような気がしている。
そこでは、「身内以外への正義」なんて存在しません。
「身内以外への正義」というのは、「政治からみた僕への正義」であり「メディアからみたBへの正義」です。
(恐らく僕のほうがBよりもメディアから圧倒的に外側だと思いますが、いまは話の流れに関係ない)
誰もが、ひいきされてほしい人がひいきされるように望みます。
たぶん僕が主として携わっているお笑いもそうなんでしょう。
ひいきされるべきものがひいきされているのかどうか。
「正常なひいき」がちゃんとなされているのかどうか。
「正常なひいき」!!
僕が現状お手伝いしている裏方のお仕事だって全て、身内びいきでいただいているものばかりです。
それがただのひいきなのか、「正当なひいき」なのか。
僕は能力と働きによって証明するしかありません。
何度も負けてきた戦いですが、今後も頑張ってみようと思います。9月3日にマイルドさんのライブをお手伝いします。頑張って準備いたしますのでぜひ。
〇念のため。
念のため、改めて。
ぜんぜんAさんが悪いとは思っていないことを改めて述べておきます。たぶんAはこんなの読みませんが、万一読まれて怒られたら凄い嫌なので念を押しておきます。
上記の順番でこの2つの話をされたから「順番キモいな」と思っただけです。
Bに地位や報酬に見合う能力があるなら問題ありません。その時にないとしても後で身につければいいしね。
加えて、座付き作家としてのBの価値は、いかにAを面白くするかに掛かってきます。Bの価値はB単体では計り知れません。
Bにこそできる「A+B」(A単体では絶対にできないもの)こそがBの価値になるわけですから。
この場合のBの価値の何割かはAの能力に依存します。主としてAの想像力の幅広さと責任感の強さに依存することでしょう。
〇余談
そういえば、今回の記事を書きながら、別のある芸人からもらったlineメッセージのことを思い出しました。
その人は僕をある仕事に誘ってくれんですが、その仕事の進退に関する悩みを相談したところ、「ずっと居座っておいてくれたらいい」というような内容を返してくれました。
ものすごくありがたいお言葉です。嬉しかったし感謝しています。
でも、もしかしたら僕はこの時、少し、傷ついていたのかも知れません。
あの日の渋谷でのAとの話はずっと引っ掛かっていて、もしかしたら、少し、影響があったのかもしれない。
僕は後にその仕事は、僕が申し出る形で辞めてしまいました。僕の力不足でした。ぜんぜん面白くできなかった。
涙の一滴も見せていないのに、よくも僕みたいなものにこんなことを言ってくれたものです。その善意たるや。ありがたい。
感謝と申し訳なさが大爆発につぐ大爆発です。
とはいえ、番組を1mmも面白くもしていないのに僕が居座る状況は、「コネの波紋」をうんでいたでしょう。
出来る範囲でではありますが、そういうものとは戦いたいなと思っています。1つ1つのお仕事への姿勢で。
能力もないくせにこんなことを言うてるやつは近々、そうそうに死んでしまうのでしょうが、死んだ方がマシだというくらいにイヤなことがあるっていうのは、それなりに良い人生なんじゃないでしょうか。
たぶん。
死んだら笑ってやってくださいね、それまで僕なりにがんばります。ウケる死に方がしたいものです。
以下はオマケです。買わなくていいです。
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