忍者このやろう
忍者は、平日の遊園地のたいして人のいない広場の真ん中に、腕を組んで立っていた。
「ちょっとお待ちなさい」
と、なるべく見ないように通り過ぎようとした私に向かって、忍者はそう言った。
もちろん私は聞こえないふりをして、先を急いだ。
「動くな、影を縫うぞ」
その声で、私は少し早足になった。でも二歩も歩かないうちに、大声が私の足を止める。
「すいませーん!一昨日から何も食べていないのです!どうか何か恵んでくれませんかぁ!すいませーん!」
危険、こいつはキケン!私は全力で逃げ出そうと身体に力を入れる。
「そこの黄色い服を着た髪の長いお嬢さーん。すいませーん!」
人目なんか気にせず逃げていればよかったのだ。
私は思わず立ち止まって、あろうことかさらに振り返ってしまった。
忍者は、タオルの上に一つ一つ立てて並べた数十個の卵の上に乗って、その状態で腕を組んで立っていた。
「見なさい、忍法卵乗りの術です」と忍者は得意げに言った。
「お腹すいてるならその卵食べなよ。いっぱいあるんだし」
「腹なんぞすいてはいない。さっきのは、あなたをこちらへ呼び戻すための忍術だ」
私はもうなんと言うか、ものすごくウンザリした。忍者に向かって顔をメチャクチャにしかめてみせてから、とても素面では言えないようなことをたくさん並べ立てて、最後にへんっとか言って、その場をあとにしたかった。もちろん黙ってたけど。
忍者も忍者で、私の目をじっと見ているだけで何も言ってはこなかった。ただその静寂を時々、忍者の腹の音が埋めるだけだ。
「やっぱりお腹すいてんじゃない」
「すいてなどいない。ただ、腹が鳴っただけだ」と忍者は言った。
ぐう~
「私、行きたいんだけど。行っていいかしら?」
「拙者はあなたの親でも恋人でもないので、そのような事、いちいち聞く必要などない。どこへなりとも消えればいい」
蹴ってやろうと思ったが、あとで慰謝料とか卵代とか言われたら嫌なので、私は何も言わず踵を返した。そして十歩くらい歩いたときだった。
「嘘ですすいません!何かご馳走してください!後生ですから!」
結局私は、渋々忍者にご飯をおごってやることにした。また忍術とか言われて騒がれたりするのはたまらない。
忍者は卵をパックにいちいちもどし、それを生協の袋に入れてから私の後についてきた。
食堂に入るなり、忍者は素早くカレーライスを頼んだ。なんというか、バーテンダーに牛乳でも頼むみたいなだっさい言い方だった。
女性店員さんは、チラッと私に気の毒そうな視線を向けてカウンターの奥に消えていった。多分こんなことが何度もあるのだ。
「あんた、ここで働いているんでしょ?なんでお金持ってないわけ?」と私は忍者に言った。
しかし忍者からの答えはいつまでたっても返ってこなかった。目を瞑り、右手にスプーンを持ちながら腕を組んで、ジッと座っている。
「あんた何歳?結構いい年よね」私は話を変えた。
しかし結果は同じだった。そしてそのことについて文句を言おうとしたとき、ようやく忍者は口を開いた。
「あなたの質問に、拙者が答える義務などないのでな」
私は勢いよく立ち上がり、出口に向かって歩いて行った。もう騒がれようがダダをこねられようが関係ない。
しかし、私が覚悟していたような忍者からの妨害(あるいは忍術攻撃)は一切なかったのだった。
そのまま外に出ようとしたときである。
「すいませんお客様」
と、私の腕を掴みながら申し訳なさそうにさっきの女性店員が言った。
「あの人、本当にお金持ってないんです。ですから、お客様に帰られますと…」
店員越しに忍者の方を見ると、すでに奴は上手そうにカレーライスをもりもりほお張っている。
私はやり場のない怒りを、吊り輪中の体操選手みたいに堪えて、財布から千円札を引っ張り出す。
すると店員はこう言った。
「彼にお代わりされると、その金額だけじゃ足りなくなるんです。…すいません」
「お代わりさせなきゃいいでしょ!」
人がいないとはいえ、お店のなかでこんな大声を上げたのははじめてだ。
すると店員は泣きそうな顔で、「駄目なんです。彼の注文を断ってしまうと、私が忍術攻撃を受けてしまうのです。お願いです」と言う。
「忍法蜘蛛の巣地獄の術」
と、苛立たしげに再び席についた私に向かって、カレーライスを口に含みながら忍者は言った。
「おごってやったんだから、礼くらい言えないの?」
かたじけないと忍者は面倒臭そうに言った。
「あんたって、本当に本物の忍者なの?」とむっとしながらも私は聞いてみる。
「見れば分かるだろう」
「じゃあ、なんかそれらしい忍術見せなさいよ。おごってやったんだから」
「随分恩着せがましい人だな」
と、忍者はカレーライスのお代わりを頼んでから言う。
「あんたの厚かましさに比べたらかわいい物よ」
「…致しかたないな。しばし待たれよ。あ、すいません。ここにオレンジジュース一つ」
それから私は、忍者が二杯目のカレーライスを平らげ、三杯のオレンジジュースを飲みほすのを、石像みたいに黙って待った。その永遠のような一瞬のような時間(もっとロマンティックな場面で使いたかった)、私は今自分が何をしているのか三回くらい分からなくなった。
食べ終わった忍者は、私に向かって馳走になったと一言言い外へ出て行く。渋々お金を払ってから、私は忍者の後を追った。
しかし、外には忍者の姿はどこにもなかった。