「絶望」と「数学的帰納法」の関係について
今回は、「絶望」と「数学的帰納法」の関係について考える。結論から言えば、一見すると無関係な「絶望」と「数学的帰納法」は、大きく関係しているかもしれないと思われる。
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『広辞苑』で「絶望」と引くと、次のような記述が見つかる。
この記述において、「たえる」ことは「絶える」ことであり、「希望を(全く)失う」ことは「希望が叶わないと考える」ことであると考えれば、「絶望」とは「未来において希望が叶わないと考えること」と言える。
しかし、「未来」はそもそも不確かなものである。そのため、自らの「希望」が「未来」において叶わないことを断言できる人でない限り、「未来」において「希望が叶わない」とは必ずしも言えないのではないだろうか。
自らの「希望」が「未来」において叶わないことを断言できる人とは、例えば、余命わずかな人のように、自らの「希望」の実現に時間的な制約があり、その制約の中では「希望」の実現が困難であると自覚した人である。
あるいは、不老不死を諦める人のように、様々な状況を客観的に考察した結果、自らの「希望」が非現実的であると自覚した人である。ただし、このような時間的または状況的な制約による「絶望」は少数であると思われる。
おそらく、「絶望」する多くの人にとって「未来」は不確かであり、「希望が叶う」可能性もないわけでない。そのため、「未来」において「希望が叶わない」と考えること(「絶望」)は「不正確」であるように思われる。
例えば、失恋して「絶望」する人は、失恋の悲しさを取り除きたいという「希望」が「未来」において叶わないと考えるが、後にその悲しさが消え、「希望」が叶えば過去の「絶望」が「不正確」であったと感じるだろう。
つまり、それぞれの「希望」で叶う可能性の大小はあるものの、叶う可能性の全くない「希望」は少数であることから、「絶望」の多くは「不正確」であると思われる。
では、なぜ人は「不正確」に「絶望」するのだろうか。
これには、次のような答えが考えられる。「人は、常に論理的で正確に考えるわけではなく、感情の乱れがある時などは特に、感情的で不正確に考えることがあり、そのような時に絶望するのだ」と。
確かに、人にはそのような側面があり、「絶望」もその一つと考えることはできる。実際、「絶望」している人に対しては、「正確」な論理で意見するのではなく、たとえ「不正確」で支離滅裂であってもその人の話を聞き、その感情に寄り添うケアが必要な時もある。
ではやはり、人が「絶望」するのは、その人が「不正確」に考えるからだろうか。また、「未来」は不確かであると頭では理解していても「絶望」することをやめられない人は感情的なのだろうか。
もちろん、「絶望」する人は、感情的で「不正確」に考えることもあると思われるが、論理的な説明や言語化ができないだけで、「正確」な考えを元に「未来」において「希望」が叶わないと感じることもあるのではないか。
つまり、「絶望」は、必ずしも感情的で「不正確」に考えた結果ではなく、「無意識」に論理的で「正確」に考えた結果かもしれない。
このように考える根拠として、「数学的帰納法」という数学の証明法を使って人が「絶望」することが挙げられる。
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「数学的帰納法」とは、一般に、次のように記述されることが多い。
この記述のみから「数学的帰納法」について理解するのは難しいが、次のように「数学的帰納法」を「ドミノ倒し」にたとえるとわかりやすい。
つまり、すべての自然数nについて成り立つ命題を証明するのに、nが1、2、3・・・の時のすべてで成り立つことを証明するのは不可能なので、最初の自然数の時に成り立つことを証明して、後はその次の自然数の時に成り立つことを任意の自然数kを使って証明すればよい、という方法である。
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では、この「数学的帰納法」を使って人がどのように「絶望」するのかを次の例から考える。
Aさんは、失恋して悲しみを感じているが、失恋の悲しさを取り除きたいという「希望」は「未来」において叶わないことを次のように確信した。
「私は、失恋して毎日悲しい。この悲しさを取り除きたいという希望がある。しかし、今日は朝から晩まで悲しかったので、この希望は今日叶わなかった。ところで、この悲しさは寝て起きたら消えるものではないのだから、悲しい日の次の日は悲しいに違いない。ということは、この悲しさを取り除きたいという希望が叶わない日の次の日も、この希望は叶わない。じゃあ、この希望はこの先ずっと叶わないままで、私はこの悲しさを取り除くことが未来永劫できない。この数学的帰納法が成り立つので、絶望しているのだ」
このAさんの考えにおいて、太字で表示している部分が、「数学的帰納法」の証明である。仮に、Aさんの考えが正しいなら、Aさんの「絶望」は感情的で「不正確」ではなく、論理的で「正確」であると言える。
「数学的帰納法」を使った「絶望」は次のように一般化できる。
ある人が、「現時点」(例えば「今日」)において、自らの「希望」が叶わないと確信する。
その人が、任意の「時点」(例えば「今日」を「1日目」とした時の「k日目」)において、自らの「希望」が叶わないと確信すると仮定すれば、任意の「時点」から進んだ「時点」(例えば「k+1日目」)において、自らの「希望」が叶わないと確信する。
以上2つが証明(確信)されるならば、「希望が叶わないこと」はどんな「未来」においても成立すると言える。
これは、どんな自然数についても命題が成立することの証明である「数学的帰納法」を、どんな「未来」においても「希望が叶わないこと」が成立すると考える「絶望」に置き換えたものである。
Aさんのように、意識的に「数学的帰納法」を使って「絶望」する人はめったにいないだろう。しかし、多くの人が、非常に困難な状況において「明日も明後日も、この希望は叶わない」「寝て起きたら状況が改善しているなんて事はあり得ない」といったことを考えるのではないか。
ただし、それは「絶望」する人が「無意識」に考えた結果であり、論理的な説明や言語化ができないため、その「絶望」は感情的で「不正確」であるとされることが多いと思われる。
つまり、感情的で「不正確」に「絶望」していると思われる人も、「数学的帰納法」やその他の考えから「無意識」に論理的で「正確」に「絶望」しているかもしれないのである。
では、Aさんの「数学的帰納法」を使った「絶望」が論理的で「正確」であるならば、Aさんは「未来」において「希望」が叶わないのだろうか。
おそらく、それは断言できない。Aさんが「現時点」(「今日」)で自らの「希望」が叶わないことは明らかである。しかし、「希望が叶わない日の次の日も、この希望は叶わない。」かどうかはわからない。おそらく、「現時点」での悲しみが大きすぎるためにそのように考えてしまうのだろう。
むしろ、悲しさは時間がたつにつれて消えていくものである。もちろん、大切な人を亡くした悲しさなどは一生消えないこともあるだろうが、悲しさは少しずつ小さくなっていくのが人の感情ではないだろうか。
こう考えた時、「絶望」する人に対してその人の感情に寄り添うケアが必要な時もあると先に述べたが、それと同時に、「希望が叶わない日の次の日も、この希望は叶わない。」という考えを否定することも必要に思われる。
つまり、非常に困難な状況は1日や2日では良くならないかもしれないが、少しずつ状況が良くなることもあるのだから、「未来」において「希望」が叶わないとは決して断言できないのだということをその人に伝え、「絶望」をやんわりと否定するケアも時に必要なのではないだろうか。
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今回は、「絶望」と「数学的帰納法」の関係について考えた。
結論として、感情的で「不正確」に思われる「絶望」も、「数学的帰納法」やその他の考えによって論理的で「正確」である可能性もあり、「絶望」と「数学的帰納法」は、大きく関係しているかもしれないと思われる。
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参考文献・参考資料(2022年3月8日最終確認)
辻良平(2002)『センター試験必出 数学公式180』旺文社
辞書(2022年3月8日最終確認)
『広辞苑(第六版)』(2008)岩波書店
『高校数学解法事典(改訂版)』(2003)旺文社