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積み上げていまがあること

積み上げること、は暮らしの中ですごく大事な行為だと思います。
積み上がった実感がもてるもの、もてないものがあるということが厄介だなと最近は感じています。

目に見えるモノとして、実態として、積み上がっていくのであれば、それは軌跡として実感を伴います。
例えば、料理。例えば、ものづくり。
一つひとつの工程を経れば、時間をかけて完成に近づいていきます。
手順が決まっていれば、より確実に完成させることができます。

積み上げたものが、カタチになる。成果になる。結果になる。
モノをつくっていると、自分がかけたコストがダイレクトに反映されるので、良くも悪くもわかりやすいと思います。
そのわかりやすさに縋りたいときが、たまにあります。それはどんなときかというと、自分が成果を出せていないと感じるときです。

終わりの見えないゴールを走り続けることは、正直にいうとつらいです。
ゴールできる保証もないし、ゴールがあるかすらも保証がない。
成果がカタチとして現れること、これが一種のゴールに思えて、それが自分が積み重ねてきた軌跡を表し、安心につながる。

自分がかけたコストが反映される、つまり、自分の価値がはっきりと証明される気がするのです。


一方で、積み上がっていることが目に見えない場合、自分がつくりあげた、という自負が必要です。
常に積み上げてきた軌跡を振り返り、踏みしめて、確証できるものを収集して、自信に昇華する。
目に見えないからこそ、自分で積み上げてきていることを実感するしかないのです。積み上げてきている確証を得るのは、自分で自分を見つめ直すしかない。

学生のときは、目に見えるものをずっと積み上げてきました。それが成果であり、積み上がったもので評価されてきたように思います。
テストの点数。数字として評価が下されるので、自分が積み上げてきた結果が何点になったのか(良くも悪くも)反映されます。

社会人になり、目に見える成果が出ない日々が続きます。
ゴールのないゴールを目指して走っているよう。
でもどちらかというと、ゴールの解像度が低い・ゴールの実感値が低いだけかもしれないと思っています。

本当はゴールに達しているのに、着いたー!と思えない。
それは自分で自分を褒めたり、自分で自分を見つめ直したりできていないからかもしれないです。

もっというと、言語化できていないだけかもしれないです。
目に見えないなら、目に見えるように、落とせばいい。
その手段として、言語化があるはずです。でも言語化がうまくできていない。

メンタルをコントロールしながら、メタ的に自分を見つめて、少し先のこともずっと先のことも俯瞰して、着実に次の1歩を踏みしめて歩く。
それが実態のないものを積み上げることだと思います。
そして、積み上げた結果が見えなくても、自分で探す。

大事なことは日々あふれているなあ。
こうやってnoteに書くことも、実態のないものの言語化作業です。
この後、たまには過去のnoteを振り返ってみよう。
積み上げた軌跡が、振り返られるかもしれない(振り返られないかもしれないけど)。

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