何者かを目指して、走っていた
常に、自分の肩書きはなんだろうと感じる。
何者かになりたくて、自分は何者になれるんだろう、と走ってきました。
いま、自分のWEBサイトを制作中です。
さまざまな方の事例を見ていると、プロフィールには肩書きがあります。
WEBデザイナー、専業主婦、詩人、高校生、などなど。
わたしのnoteはいま、「デザイナー・クリエイター」にしていますが、一番近い肩書きがこの2つかな?と思っているので、当てはめてみてます。
もっと、別の言い方ないかな?と思ったりもしています。
自分のWEBサイトを作っていると、改めて自分を見つめるきっかけになるのですが、見つめ直しても答えは出てきません。
過去に積み上げてきたこと、それらをまとめて何かと表現するには、自分の経験も知識もまだまだ足りない。
でも、確実に、粒を拾いあつめ、連ねて、重ねてはいると自負しています。
ちっぽけだけど、小さなコトを小さく1歩ずつ進んで入ると思っています。
自分の信念を貫く。
自分が想う、感じたこと、たとえそれが違和感だとしても、しっかり伝える。
それが、わたしができる対話であり、関係性の築き方です。
このような信念が生まれるのも、これまで自分が歩んで触れて感じてきた価値観のおかげです。
だから、今のわたしをつくるのに、無駄なことはなかったとおもう。
それでも、自分はまだ何者でもない。
四半世紀生きてきて、まだ何者でもない。
何にもハマらないということは、社会にとって自分は接点が持てていないのかもしれない。
危うく自信を失いそうにおもうときもありますが、裏を返すと自由な気もしています。
箱があると、箱にはめてみたくなり、箱に入っちゃうと、抜け出す勇気がなかなか持てないかもしれません。
だからこそ、わたしはこのまま何者でもなく、何者にもなりたくないのかもしれない。
別に前じゃなくてもいいから、顔は上げておきたい。
それくらいの自信だけ持っていれば、肩書きを名乗る必要はなく、ただ自分の名前「山本望愛」を名乗ればそれでいいのかもしれない。
そう考えると、肩の荷が降りた気がします。
でも、そもそも何を背負っていたんだ、と思います。
わたしは自ら進んで背負ったもので、自分を縛っていたのかもしれません。
何者でもない自分を、受け入れるのも自分。
謙虚さを常に持ち合わせること、少しばかりの自信を持つこと。
それさえあれば、あとは自分の信念を貫く覚悟を持つこと。それが揺らいでも大丈夫だと柔軟に対応する器量を持つこと。
大丈夫、わたしは何者でも在れる。