文責
文責というものをいつも考えている
今は止めているが、本の中の漢字間違い、誤記があったら編集者に手紙書いたり、メールしたりしてた時期があった。時代は移りネットでニュースを見る時代になって、本当に校閲してんの?ってくらい間違い多くて、違いますよ。と編集者にメールして、しばらくしたら(連絡もなく)修正されてるなんてことを繰り返してた。
私は相手が思い通りに動いてくれたということに満足することはなく、公というものに対して正しくあって欲しいという消費者としての声が届けばそれで良いのである。そこには必ず文責を入れる。善き消費者であれというのは祖母譲りで、悪い時は猛烈に非難するし、いい時は激褒めしている。近所に八百屋ライクなスーパーがあり買ったトマトが腐っていたことがあった。すぐさま店に電話したらレジのおばちゃんが出て、あからさまに迷惑だなぁという対応をされた。(この時点で、店に返品することを鬱陶しく思った)
でも、他のお客さんが買ったら大変だから店長に伝えて欲しいとレシートとトマトを持って店に行った。店長にさっき電話したものですけど、と伝えたら『腐ったトマトを売って申し訳ない。売り場のトマトは全部確認したので代わりのトマトか返金かどちらか選んで下さい』と言われ、トマトが必要だったので新しいトマトを購入して帰った。電話して、交換してという形でカロリー(コスト)は高いのだが、気に入っている店のためには惜しまない。SNSで簡単に批判ができる時代になった。八百屋で買ったトマトの写真とともに店を晒してけしからん!というのは簡単で、きっと同調の声は得られるだろう。カロリーも少なく、最初の怒りに他の人の怒りをのっけた形で(間接的に)店に届くだろう。腐ったトマトを買っていい気はしなかったが、失敗した後にどうするか?ということは店にも客にも求められている。腐ったトマトを買った後に、匿名で店を晒すのは、客の失敗だ。どう考えてもそのことが良い店を作ることには繋がらない。もっと言うと、急いでいてトマトの裏側を見なかったが、しっかり見てれば購入する前に、店長にトマト傷んでますよと伝えられたかもしれない。矢印は反転して自分に帰ってくる。
ネットの中でお腹いっぱいになれる時代になれば、スーパーに行く必要はなくなるだろうが、そんな時が来たら人間の体裁を保てているのだろうか。