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下山事件にみる歴史のねじ曲げ方 第Ⅰ章7

最大のプレッシャー

「3日に整理を断行せよ」

組合交渉の難航で、GHQの意に反して人員整理が一層ぐずぐずした格好となってしまい、下山定則・国鉄総裁は1949(昭和24)年7月2日、GHQ民間輸送局(CTS)シャグノン中佐に呼びつけられ、「3日に人員整理を断行せよ」と厳命されました。

中佐と会ったのは、前回に書いた最後の組合交渉の前になると思います。
中佐は「ドンキホーテを地で行くやつ」と評する人が居るように高圧的なイメージで語られる人物でした。
平たく言えば、「日本人に対し威張っている嫌われ者」といったところでしょう。
GHQの命令は絶対ですので、そのまま引き下がるしかありません。

しかし、よく考えると、指定された3日は日曜日で銀行が休みのため、解雇した人に退職金が払えないことが分かりました(当時は全て現金払いです)。
再度、シャグノン中佐を訪ねましたが、留守でした。
仕方なく「4日に回す」と伝言を頼みました。

「ただごとでない」様子

その日(※1)午前11時半ごろ、下山総裁は数カ月前に一度だけ顔を見せたことのある永田町の貸席料亭に突然現れ昼食を取りました。
その時の様子が異常だったと捜査で明らかになっているのですが、毎日新聞担当デスクの平正一氏が後年に偶然、この料亭に行った際、女将から生々しい話を聞いていますので、その言葉を紹介します。

「下山さんは自動車に乗って1人でやって来ました(注:専用運転手も連れだっていました)。昼食を取る間、少しも落ちつかず、女性従業員の足音にもハッとして振り向く、玄関の戸の音にも聞き耳をたてる。一箸つけては考え込む、そして一膳のごはんがやっとでした」
さらに女将は続けます。
「私ね、従業員にも『あの方、とてもただごとではないご様子だから、ここにいらっしゃる間、目を離しちゃいけませんよ』って言ったくらいなんです」
捜査では、この料亭から外務省へ電話し「GHQに『4日整理』を伝えるように」と依頼したことが分かっています。

中佐の怒声

その後、例の組合交渉をこなし、官房長官にうそをついてから、総裁は自宅に帰りました。

ところが、さらに最大のプレッシャーが待ち構えていました。
午前1時ごろ、「4日」の伝言に怒ったシャグノン中佐が自宅に乗り込んで来たのです。
応接間のテーブルに大型拳銃を置き、荒々しい声で整理の断行を迫ります。結局、帰ったのは午前3時半ごろになったということでした(※2)。
 
国鉄幹部は事件後、「そんなことは気にしていなかった」とシャグノン中佐の圧力を否定しました。
他殺説の人たちはそれに乗って「自殺はあり得ない」という論を展開するわけですが、自分が同じ境遇に置かれた場合を想像すれば容易に心情は理解できるはずです。
そもそも、「シャグノンがプレッシャーだった」なんてことはGHQの手前、国鉄側からはとても言えなかったと思います。

シャグノン中佐の経緯は公式記録となる警視庁史にもありますが、「民間運輸局係官が深夜総裁の自宅にまで押し掛けて、威圧し、せき立てた」とだけ書いてあります。約30年がたってもGHQを糾弾するようなことは詳しく書きにくかったのでしょうか。

「自殺じゃないかしら」と夫人

これまで、警視庁の刑事の中で一番名を知られたのは平塚八兵衛氏ではないでしょうか。事件当時、部長刑事(巡査部長の刑事=ベテランで幹部も気を遣う存在)で、総裁失踪が警視庁内でも一部しか知らない段階で自宅に行き、総裁の妻からシャグノン中佐のことを聞き出して「ひょっとしたら自殺じゃないかしら」と話すのを聞きました。
退職後に新聞各社の企画記事に応え、経緯を明らかにしています。

(「警視庁史」にも同様な妻の発言があったことが記されています。下山夫人の言動については後で述べることになると思います)。
 
なかなか進まない人員整理。治外法権的な権力を持つGHQから続けざまの叱責。しかも、最後は自宅にまで乗り込まれ、拳銃を見せ付けられながら未明まで2時間半も怒声を浴びせられたのです。
その状況に「自殺であるはずがない」と言い放つ国鉄幹部の神経が私には理解できません。「他殺でなければ困る」という意識が(内心は総裁の心情を理解しつつも)言わせた言葉だと思います。

※1.その日

「警視庁史」は3日になっていますが、2日でないとつじつまが合いません。誤記または誤植と思われます。

※2.シャグノン来訪

週刊新潮「マッカーサーの日本」でシャグノン氏自身が取材に応えています。
「下山総裁が辞意を伝えてきたため午前0時ごろ自宅に行き、翻意を迫った。彼は疲労困ぱいしていた。労組の突き上げもあったろうが(整理対象となっている)国鉄幹部の方に苦労しているように見えた。彼は最後に笑って『頑張ってやる』と言った。ピストルはケースに入れ、テーブルの上に置いていた。出された酒を1、2杯飲んだかもしれない。午前2時ごろ辞去した」
そんな内容です。
捜査と大きく違うのは、訪問日が失踪前夜(未明ですので同日ということになります)となっているところです。
「下山総裁はその後、一睡もせずに考え続け、午前4時ごろ車で家を出た」
鉄道関係者から後で聞いたという夫人の言葉を基に、そんな話もしています。
証言に事実が含まれているのか検証はできませんが、会話の内容はリアリティーを感じさせます。訪問日については、捜査結果の方が前後のつじつまが合っているのではないでしょうか。
捜査結果と時刻が微妙に違うのは、自分の圧力を少しでも小さく見せる意図があったか単なる記憶違いかと思います。
取材した記者はシャグノン氏について「(仮に)謀殺であっても彼が関わっているとは思えない。彼の来訪で総裁がさらに重い負担を感じただろう」と印象を語っています。

第Ⅰ章8につづく)

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下山事件にみる歴史のねじ曲げ方 プロローグ1|守利一洋

下山事件にみる歴史のねじ曲げ方 第Ⅰ章1|守利一洋

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