異端と増野鼓雪の信仰
前回の記事「茨木基敬考…その3」で鼓雪の証言のことを書いたが、どうも引っかかるので、『増野鼓雪の信仰と思想』を読み返してみた。著者の西山輝夫氏は、長く道友社に勤められ、著書も多く、お道の上で素晴らしい業績を残された方だと思っている。前置きは、そのくらいにしておいて、この本から引用する。
今の時代のモラルから考えて、信じられない話でもあるが、どうも鼓雪はたくさんの聴衆を前に講演するよりは、少人数で座って話をするスタイルの方を好んだようである。その為に講演前には一杯、ひっかけていたのかとも思う。しかし、「もうろう」とするまで飲んで、まともに話ができていたのだろうかと思う。恐らく、本部や教校の中では、鼓雪が酒を飲んで講演しているというのは、大正期には知られた話だったのかもしれない。
しかし、広池千九郎にしては、受け入れられないことだったのかと思う。今の時代なら完全アウトだとも思うが、天理教といえば「直会」で、酒がつきものだったように、私自身も思っているが、現代とは違う感覚があったのかとも思える。
次に茨木事件や井出クニ謀叛があった大正期に関して、書かれた部分があったので、紹介する。「教祖三十年祭の大節」という部分である。
私が「茨木基敬考…1.2.3」で、書いて来た内容そのものであり、よくもこれだけの「ふし」を続けて見せられたものだとも思う。「妻つるの死」「実父増野正兵衛の死」「初代真柱の死」など、立て続けで、「義父松村吉太郎の収監」という追い打ちもある。
天理教的に考えれば、悪しき因縁が全部、吹き出したのではないのかと思うのが、普通ではないだろうか。神の怒りに触れてしまった「かやし」の連続だったのだろうか。
「実父正兵衛の死」は茨木基敬が予言していたとのことだったが、鼓雪はそれも知っていたのだろうか?知っていたとは思えない。次々と起こる本部の事情に対して相当、悩みぬいたことと思う。
増野鼓雪は教会制度に反対だったのだろうか。どうも鼓雪は天理教の教会制度については、複雑な思いを持っていたようである。
大正4年で鼓雪は26歳だったようだが、この若さで、鋭く天理教の問題を考えぬいていたというのは、凄いことだと思う。立て続けに起こる「ふし」が、そうさせたのだろうか?
大正期の天理教について、問題だらけだと苦悶していたのだろうと思う。それだけに、教内で、立て続けに起こる「安堵事件」「井出クニ謀反」「茨木事件」について、どのような思いを持っていたのかが気になる。このことについては、『増野鼓雪の信仰と思想』の「自称天啓者のこと」の章で述べられていたので、紹介する。
これらの情報では、大正7年2月に茨木基敬の天啓のことを聞いたようだ。この段階では、まだ本部員には登用されておらず、事件の詳細なども知らされていなかったのかもしれない。義父の松村吉太郎が、すべての経緯を、全てありのままに話さずに、都合よく話したとも考えられるが、続きを読んでいただきたい。
茨木事件の前にあった水屋敷事件を引き合いに出して、述べているが、水屋敷事件があった頃、鼓雪はまだ8歳の子供で、事件のことを詳細には知らないはずだ。恐らく義父の松村吉太郎から、つるとの結婚後に、本部側に都合のいいように説明を受けていたことだろう。
ましてや、自分の足で調べたりもしていなかった思われる。そこから「本席たる地位を得ようとしていた」という証言になったのかと思われる。
しかし、憶測で言っていたことが、『天理教事典』では「証言していた」に変わっているのも変である。
私が、どうも腑に落ちないというのは、この部分である。憶測で言っている分にはいいが、「証言した」となれば偽証になりかねない。『天理教事典』の方で「証言をしていた」という根拠がほしいところだと思う。
私は茨木基敬が本席の地位を得たかったとは考えていない。自称天啓者だとも思えないのだが、どうなんだろう。タイムマシーンに乗って、その時代へ行き、鼓雪と茨木父子と松村吉太郎に会って、直接、インタビューしてみたいものだ。そして、戻ってきてから、Noteに詳細を書いて、読者に紹介したいものだ。
鼓雪は天啓者の公的承認についても、述べているが、教祖の場合は、「夫善兵衛さんの承諾」、飯降本席の場合は、「初代真柱の承認」があって、それらを得なければ、公的に認められないものだと述べているようで、茨木の場合、「教会の承認」を得た天啓者として、はじめて公的権威のあるものだと考えているようだ。
しかし、それは、そもそも無理な話であったと思う。教祖、本席の場合とは、明らかに違いが多すぎる。まして、松村吉太郎が、ほぼ全権を握っていた時代の話である。本部員全員を招集して、天啓が本物であるかどうか検証して、総意として認めるなどという手続きをすることなど、あり得ない。
それは、以前の記事を読んでもらえればわかるはずだ。鼓雪は実例として井出クニの話を、次に挙げている。読んでいただきたい。
私が調べてきた事実とは、やはり大きく違うようだ。 井出くにを信奉する者が画策して、本席の地位につきたいという話は、調べていく中で、聞いたこともない。飯田岩治郎も然りである。
この時代に、他にも自称の天啓者と名乗る者は、いたのかもしれないが、全てまとめて、本席の地位を狙っている自称神様だと片付けるのは、ただ本部を守ろうとしたようにしか思えない。
鼓雪は「明治30年代には霊気が教内に漂っていたが、それが感じられなくなった」と述べ、霊的人格者を望んでいたようだが、これもおかしいと感じる。なぜなら、先ほども書いたように明治30年の水屋敷事件があった時、鼓雪は8歳の子供であり、実体験もしておらず、先人に話として聞いていたことばかりであると推測されるからである。増野正兵衛の息子で二世であるが、既に教会本部という体制が出来上がり、その中で育ってきた鼓雪であるから、いくら本当の道を求めようとしても、現実と理想の狭間で悩むことばかりであったのではないかと想像する。
もう10数年、早く生まれていれば、また思想面においても変わっていたのではないかと思われるし、自分の目で確かめ、教団の変えていくべきところを、もっと的確に指摘し、活躍できたのではないかとも、私は思っている。
29歳という若さで本部員に登用され、39歳という若さで出直すという数奇な運命にあった人なのかと思うが、純粋に道を求めていた人物なのかと思う。これも二世という立場で、天理教という教団の中で、教会制度に翻弄されてしまった事例なのかと思うと、一抹の寂しさを感じる。
なぜなら、私は昭和の時代に本部の子弟、また教会の子弟を、友として多く見てきたからである。
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