『おふでさき』12号にある「うそ」について
『おふでさき』の中に「うそ」についてのお歌がいくつかあるが、ちょっと「うそ」についても考えてみたい。中でも第12号の111~113で「うそ」が出てくるが、これは誰に対して言ったものなのだろうか。
「おふでさき」の第12号は「うち」について述べられているようだが、これらの歌が書かれたのは明治9年頃で、教祖が79歳の頃であるなら、「うち」には秀司さん(56歳)まつえさん(26歳)がいたはずだ。小寒さんは前年に出直している。推測の域を出ないが、やはり、秀司さんやまつえさんに対するお歌なのかと思える。一家の戸主として中心的な立場であったはずだ。教祖は中南の門屋が竣工し、そちらに移っていた頃である。
今までもどんな嘘でも聞いてきたが、もう嘘は聞かないということは、秀司さんは、そんなに嘘ばかりついてきたのだろうか?神というものは「嘘と追従」が嫌いで、これから先は嘘ばかりついていたら、神が退いてしまうとまで厳しいお諭しをしている。応法の理に流れる秀司さんたちに対して、どのような嘘も聞いてきていたけど、それももう限界が来たということなのだろうか。
前年の明治8年には「ぢば定め」も済んでいる時期であり、やはり秀司さんが宿屋蒸し風呂業を始めたり、神の思惑とは違うことばかりやっていたのを咎めていたのだろうか。一方では教祖が鳴り物などを教え、着々と教えを伝え、「講を結べ」と集まる信者たちへも諭していたのかとも思える。
これらの歌から4年後には金剛山地福寺にも願い出て、地福寺配下の「転輪王講社」の設置へと続くのであるから、どう考えても秀司さんは以前からずっと教祖とは対立していたような関係だったのだとも考えられる。それは一連の12号を読んでいても感じられるのではないだろうか。
そして応法に流れてしまってばかりいる秀司さんは明治14年に出直してしまう。まつえさんも夫の転輪王講社を引き継ぐような動きもあったようだが、応法の道である以上、後を追うように明治15年に出直してしまう。普通に考えれば、続けて長男夫婦が出直してしまうのであるから、絶望の淵に立たされるのではないのだろうか。
しかし、教祖はその逆で、応法の理を戻そうと「こふき」を作れと命じたり、伊蔵さんにやしきに伏せ込むように説いたり、かんろだいの石普請を始めたりしている。やはり神のやしろとしての勤めを着々と進められていたのかと思える。
私は秀司さんは後に、二代真柱に生まれ変わったものと思っているが、「足をなやめて苦労かけた」というように、ひながたの中の一端を担って、生まれ変わって元気なお姿になったのかと思う。しかし、魂はやはり、そのままで、生まれ変わり、思うままに、教団を引っ張っていったのかと感じている。生まれながらに真柱という重責の立場で、神の代理のように育てられてきたのかとも思う。
私が子供の頃は嘘をついたら、親に「うそとついしょう、これきらい」と神様が言っているから嘘をついてはいけない、追従をいうのもよくないと教えられてきた。心の誠真実が大事なのであって、神が受け取るのは心の誠真実があるかどうかのようである。秀司さんは心のやさしい人ではあったが、教祖を最後の最後まで信じきれなかったし、教祖の教えも悟りきれなかったということなのだろう。これも教祖の五十年にわたる「ひながた」の一端なのだろうか。
嘘はいけないものであるが、現在まで続いている天理教の信仰の中には「うそ」はないのかと思ってしまう。上記の『おふでさき』にも出ているように「うそとついしょう」は神が嫌うものであるなら、応法の理で神道教理や儀礼などは「うそ」に当たらないのだろうか。また「貧に落ちきれ」というのも教祖が神の命ずるままに、貧の道を通らねば難儀なる者の気持ちもわかるまいと通らせたのであれば、殊更その部分を強調して、寄進するように言うことも「うそ」にはならないのかと思えてくる。私は心の誠真実で世のため、人のためとお供え金を出すなら神は受け取りもするだろうが、「うそ」でかき集めたお供え金は神が受け取れないものだと思っている。出す方も「おしいほこり」がいっぱい付いていることと思う。
終戦後、「復元」というが、現状を見ていると復元しているとは思えないし、教理面では、ごもくまじり状態がずっと続いてきているのかとも思える。やはり深く天理教の歴史にも目を向けて、人の通るべき道を正しく伝える教えに、「ごもく」は取り除いて、純粋なものにしていくべきではないかと思うがいかがだろう。
12号の113で「この先なるわ月日退く」というように「うそとついしょう」ばかりでは、コロナが治まらないどころか、世の中が治まっていかないようにも感じる。