見出し画像

私の「中山松枝」考…その2

 前回は『おふでさき』『天理教事典』、『新宗教』大平隆平、『教祖様』芹沢光治良などを引用し、「まつゑ」さんの人物像について考えていたが、続いて他の資料を引用しながら考えていきたい。手元に『先人の面影』(松谷武一 天理教青年会本部出版部)という本があるが、そこに詳細な「中山まつゑ」の記述があるので引用したい。

 明治二年から明治八年まで、教祖の家族は秀司・まつゑ、こかんの三人であった。こかんの出直し後、明治十年にたまへが生まれ、明治十三年、初代真柱が梶本の家から中山家へ移り込んだ。正冊おふでさき第十七号が書かれたときの中山家の家族はまつゑ・たまへと初代真柱の三人であった。おふでさきには、「そばなもの」という用語に関連して、「うちのもの」というお言葉もあるし、「とりつぎ」というお言葉も出てくる。さらに昭和三年(一九二八年)の「おふでさき索引」をみると、直接、秀司夫妻や小東家の人々にたいするおさとしの歌もあって、私は、中山まつゑの全生涯は、おふでさき全巻の理のせめの中に、とっぷりと浸かりきった一生であったと感じるのである。それは、私たちには想像もゆるされない大変なことである。そのことが、おふでさきに親しみはじめていらい、ずっと私自身の心のなかで、その人物像につよい関心を抱きつづけた理由のひとつであった。そしてまた、公刊文献や文書史料のなかに、断片的に保存されている中山まつゑの印象は、おおむね冷たくて、きびしい。まつゑ奥さまの真心に感銘したとか、深い愛情のこもった丹誠が忘れられないといった思い出話はない。いったい、これはどうしたわけなのであろうか。ともかくもまず生い立ちからたどってゆくことにしよう。

『先人の面影』(松谷武一 天理教青年会本部出版部)22.23頁

 この本の著者である松谷氏は自分の足で高安大教会の高安文庫平等寺村へも出向いていって詳細に中山まつゑさんについて調べ上げたようである。どうも「まつゑ」さんの写真は残っていないようである。また当時の秀司との婚礼についても詳細に調べている。この本では秀司さんが出直した後もまつゑさんが金剛山地福寺所属の転輪王講社を引き継ぎ、蒸し風呂屋や宿屋も続けようとしていたことがわかる。
 しかし、それは神の望みではなかったことは現代に生きる我々にはわかっていることだが、秀司さんの出直しで、さぞや動転していたことだろうと思う。松谷氏はまた諸井政一遺稿『改訂正文遺韻』にあるまつゑさんについて書かれた文を引用しているが、「切る一方の魂の方」だったことや、「神様が真実の深いものと、ないものとをより分けるための道具として引き寄せた」ことについても述べている。
 一般に教内ではこういった話は伏せられているように思うが、教祖は身内でも何でもお構いなしだったようである。恐ろしいほど神一条で通っていたのかとも思えてくる。
 こう考えると今の天理教教会本部の在籍者とか本部員とかって何なんだろうと思えてくる。親類縁者で固めているような印象もあるが、本来の教祖の神一条で人を寄せていくのとは大きくかけ離れているようにも感じるのだが。

 前回でも少し紹介した大道教の資料だが、引用する前に少し説明を加えたい。教組が貧のどん底から、ぽつぽつと信者も出てきた文久の頃の話であるが、その中の一人に飯田岩治郎がある。教組ご昇天の頃の集合写真にも写っている人物であり、教祖から「水のさづけ」も頂いた人物だ。水屋敷事件とか安堵事件と言われているが、教祖が岩治郎のお助けに安堵村へ行かれて、子供の飯田岩次郎を「先代の伯父さん」とよんで、とてもかわいがったそうだ。飯田家は最初期の信者とも言える。教組伝にも出てくる安堵村の飯田家である。
 しかし、異端として扱っている為に天理教内ではあまり知られていないように思う。水屋敷事件以降は天理教と同じく神道の一派として別れたのであるが、この大道教の「御水屋敷並人足社略伝」には天理教本部の検閲のかかっていない事実も書かれている。以下は「御水屋敷並人足社略伝」からの教祖みきや当時のおやしきに関する部分の引用である。

ここに老婆(教祖のこと)の長男秀司(善右衛門とも呼びたり)、其妻まつへ(平等寺村より稼したる人なり)の両人とも其性吝嗇にして老婆を常に苛酷に取扱う事なれば、寄来る他人は日々に何がな持参せねば不機嫌にして安堵よりは、両人の飯米は勿論其家族中へも、それぞれに毎度金銭を送り、又は村中へ遺物などを勤められ二日め三日め位に何ぞかわりし品を持参して機嫌を取り、なれども婢僕同様に母子共に追いつかい難儀なることを云いつけらるも神様のかくなさる事にて、此道を神が通らせるものと思うより云わるまま働き居りたり。

「御水屋敷並人足社略伝」18頁

 この文章から考えるに、どうもまつゑさんは語り伝えられている通りなのかとも思えてくる。「吝嗇」というのはいわゆる「ケチ」のことで、両人というのは岩次郎とお母さんのことで、おやしきへ来ていた時も米など持参していかなければならなかったようである。飯田家は資産家でもあったからお金もかなり持って行ったのであろう。更に「御水屋敷並人足社略伝」には興味深いことも書いてあった。

君には成人するに従い老婆をばいとも尊く慕いけれど、一方にては母上の日々我身の為にかくの如く辛苦せらるるを見れば、快しともならず。さりとて神様の伝なればにくみならず又退きもならずと心の動きはじめて我身のみなりとも、楽の道を求めんと思う、折しもよけれ山本某(山本利三郎か)仲田某(仲田儀三郎か)等は君の家より多分の金を中山家へはこび常に入費を惜まず人々のきげんをとり又在所がらにも似ず多くの金子を懐中せらるるを見て、君の何を云うてもそむかぬを幸とし、之を誘引出し、なにがな馳走にもならんと度々いざない出し、散在いたさせ終には賭事など教へ、だんだん悪しき路へ手引いたしむ。

「御水屋敷並人足社略伝」18頁

「君」というのは岩次郎のことで、教祖をとても慕っていたようである。おやしきへ母子共に滞在していたこともあるようだが、天理教では高弟と言われる二人にもお金を使わされていたこともあったようだ。まあ、この時代だから楽しみも現代とは違うので賭け事などもあっただろうが、安堵の金持ちの坊ちゃんが来たという感覚だったのだろうか。
 しかし、この文を初めて読んだ時にハッと思ったことがある。それは『改訂正文遺韻』の「仲田様御逝去」の話である。「にしきのきれと、みたてたものやけど、すっかりくさってしまふた。どんなものもつて行っても、つぐにつがれん。どんな大河でも、こさしてみせるはずやけど、このたびは、小さい河なれど、こすにこされんで。」
 
仲田儀三郎が出直したのは明治十九年のことであるから、直接、上記の文とは関係ないとは思うのだが、どうも何かあるような気がしてならない。諸井政一に「すっかりくさってしまふたと仰有るは、如何なる過ちのありしにや。誠に口惜しき極みにこそ。」と言わせた「過ち」というのはこういったお金がらみの小さな過ちのことだったのだろうかとも一瞬、考え込んでしまった。
 だいたい高弟に関する話はいい話ばかりが取り上げられ、まとめられたものが多い。従って読者には非の打ち所がない教祖の高弟というイメージしか残らないものかとも思う。私は仲田儀三郎といえば高弟中の高弟で教祖の傍でご苦労した人物と捉えていただけに頭を殴られる思いがした。それと同時にこういった研究を続けるうちに、神には近づいたが、最終的に神の目に適ったものはかなり限られていたのかとも思った。もちろんその筆頭は飯降伊蔵本席である。この「すっかりくさってしまふた」に関しては別の考察もあるので、次回に譲ることにする。

 話を本題の「まつゑ」さんに戻すが、まつゑさんが嫁入りしてから出直すまで、つまり明治2年から明治15年ということになるが、ハッと気づくことがある。『おふでさき』の執筆時とまったく重なるのである。
 
つまり『おふでさき』に書かれている「うちのもの」というのは明治二年から明治八年まで、教祖の家族は秀司・まつゑ、こかんの三人で、こかんの出直し後、明治十年にたまへが生まれ、明治十三年、初代真柱が梶本の家から中山家へ移りこみ、おふでさき最後の第十七号が書かれた時にはまつゑ・たまへ初代真柱の三人であり、それらの人々に関することが書かれているということになる。
 第十七号執筆の明治15年頃おやしきに出入りしていた人を調べてみると年齢順に西田伊三郎57歳、山中忠七56歳、仲田儀三郎52歳、山澤良助52歳、伊蔵本席49歳と家族、辻忠作47歳、泉田藤吉42歳、松村栄次郎41歳、増井りん40歳、西浦弥平39歳、山本利三郎33歳、宮森与三郎26歳、飯田岩治郎25歳、高井猶吉22歳、上田ナライト20歳などがいる。他にも入信した人がいるが遠方から通っていたと思われる。だいたいこれらの人々の伝記などを調べれば「まつゑ」さんに関する情報が出てくると思われる。

 まつゑさんの出直しに関して『天理の霊能者』に伊蔵本席の話があったので、紹介する。伊蔵さんがおやしきに移り込んだ頃の話のようである。

その頃の伊蔵の特殊な予知能力を示すエピソードが伝わっている。奥谷文智の『本席さま』などによれば、みきのもとに来る参拝者の便宜上の宿屋の名義人になっていた伊蔵は、同居の弟子の寄宿届けを怠っていたことを理由に逮捕され、奈良監獄書に拘留された。これは天理教に対する当局の弾圧政策の一貫でもあったのだが、その拘留中に中山みきの長男秀司の妻まつゑが三十二歳で死んだ。監獄を出た十一月十八日にまつゑの訃報を知らされた伊蔵は、特に驚きもしなかった。というのはまつゑが死亡した日時に、奈良の方から南の屋敷(おぢば)の方向に大音響が聞こえた伊蔵は、まつゑが死んだのを直感、さらにまつゑの葬儀の様子をありありと霊視していたためである。

『天理の霊能者』豊嶋泰國 インフォメーション出版局 79.80頁
『天理の霊能者』豊嶋泰國 インフォメーション出版局

 不思議な話ではあるが、まつゑさんが出直す頃には既に飯降伊蔵にも不思議な能力が備わりつつあったのかとも思われる。しかし、おやしきで伊蔵家族は冷遇されていたようであり、どんな気持ちでまつゑの葬儀の様子を霊視していたのかとも思う。
 
私の「中山松枝」考…その3へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?