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「人がめどか、神がめどか」もちろん、神なのだが

はじめに

 今年も、もう終わろうとしている。振り返ればいろいろなことがあったが、今年一年、無事に過ごせたことがありがたい。このNoteを書き始めて、2年以上が過ぎた。読んでくださる人がいるから、書けるのであり、感謝する次第である。Noteはログインしていれば、統計なども見られるが、年間を通して、よく読まれている記事は『播州のおやさま「井出クニ」について」』で、その次が『私の「茨木基敬」考』のようだ。それだけ人々の関心が高いのだろうか。
 今年一年も天理教の歴史や信仰について調べたり、考えたりした一年であったように思う。「真実追及派」ということで、調べたことをもとに自分の考えなども書いてきたが、本当に「天理教」に関しては、このままでいいのだろうか?という思いがする。

Noteのダッシュボードより

人間主体の集団

 現時点で感じることは「天理教」というのは元々天啓宗教であったが、神不在の人間主体の集団に過ぎないように感じている。例えは悪いが「サークル活動」「同好会」のようなものではないのか?とさえ思えてくる。
 それならそれで構わないのだが、天啓は終わり、伝えられてきた教えだけで、都合よく人を集め、お金も集めている集団にすぎないのかとも思えてくる。そして自分もその中に所属しているのかと思うと、いつも何とも言えない気持ちになってくる。それは自分だけではないこともわかっている。これだけネットが発達した現代である。心の内を吐露したSNSや他の人のNoteなどを読んでいて、そう感じる。

 また若い人が苦悩していながらも、純粋に道を求めていることもよくわかる。しかし、かつて自分がそうであったように、もっとお道のことを勉強しなければと、天理教の本をたくさん読んだりもしたが、旧態依然としたことばかりで、検閲がかかった本ばかり読んでいては、何も得るものがないようにも思う。そんなことから、もう10年以上もあれこれ調べては,ネット上で他の人ともやり取りし、また自分でもテーマを決め、詳細に調べ、足を運んで実際に見て、聞いてきたりもしてきたが、正直なところ、もう十分だとさえ感じることがある。

では、離れればいいのだろうか?距離を置けばいいのだろうか?

 それも違うような気がする。以前から、天理教の分派のことや異端についても書いてきたが、「井出クニ」「茨木基敬」「飯田岩次郎」天理教と争うようなことはしなかった。むしろ神の命ずるままに、人を助けたり、天啓を伝えたりしてきたようだ。天理教では信者と言えるのは別席を運んで真柱からおさづけを戴き、「よふぼく」となってはじめて信者と言えるような風潮というか制度がある。
 おさづけについても詳しく歴史的なことを調べれば、今の「おさづけ」に本当に意味があるのだろうかとさえ思う。それだけに教会では別席者数おさづけ拝戴者数などに一喜一憂していることに違和感を感ぜずにはいられない。

    嫌なら離れればいいのに、それができない

 教団が教規でそのように制定しているのだから、それに従う必要もなければ、嫌ならやめればいいだけの話である。ただ代々の信仰であり、親戚一同もいれば、立場なども絡んできて、単純には割り切れないことも多いのかと思う。
 つい最近も、教会長である同級生が教会をお戻ししたという話を聞いた。高齢の信者がいなくなり、子弟に信仰が伝わってはおらず、切れてしまい、結果的に教会ではあるが、自分の代でお戻しすることにしたというケースも増えているようだ。

お社と甘露台

 朝夕に自宅の神床に額ずき、拍子木を叩いておつとめをしているが、お社を見つめていると、昔、韓国のソウルに行った時、「大韓天理教本部」という看板が目に付き、参拝させてもらった時のことを思い出す。文字が違うだけで雰囲気も似ているが、柏手を打って遥拝しようとした時、思わず絶句した。お社ではなく「甘露台」だったのである。
 天理教の信者であれば、教会へ行けば、お社があり、そこに向かって礼拝するのが当たり前というか、疑問さえ抱かないものなのかもしれない。教会本部に参拝したら神殿の中に「甘露台」が据えられており、違和感もないのだろうが、教会では許されていない。
 しかし、それも考えてみれば不思議なことである。知っている人もいるだろうが、お社の中には「お目標さま」が納められている。本部から下附されたものだが、八咫鏡の模造品のようなものであり、礼拝の目標であり、教会長さんによっては火事など災害があった時でも、何としてもお守りしなければという人もいる。
 お社はまた作り直せばいいが、それほど大事なものだとしている。代々そう教えられてきたから、しかたがないのかもしれないが、明治時代の天皇は神だという国家神道の流れから来ているものだと思うと、教祖みき様が「天皇も神の子、百姓も神の子」だと説いて艱難苦労の道を通ったのとは違うようにも感じる。こんなことを書くと、櫟本分署跡保存会の関係者とか、八島英雄氏に心酔している者と思われるかもしれないが、全く関係ない。

何に向かって拝むのか

 石屋に頼んで「甘露台」を作って、それを「お目標さま」にして拝もうが、本通りの神具屋さんで木のお社を買ってきて拝もうが、何の違いがあるのだろう。「お前は異端か?」と言われるのが、そんなに怖いことなのだろうか?
 私には結局、拝む対象、拝むモノがなければ、何となく落ち着かない、格好がつかないだけの話のように思う。信仰とはそういうものだろうか?
そんなことより教祖様が伝えてきた“教え”をもとに実践し、陽気に明るく暮らしていくことの方が大事な気がする。しかし、そうは言っても私自身も柏手を打って遥拝する時に何か目標物がないと、何となくどこを向いて拝んでいるんだ?という気分になってしまう。結局、そのように躾けられてきた結果なのかとも思う。

 イスラムの人たちのようにメッカの方を向いて跪き、祈りを捧げるのでも構わないが、天理教なら親神様が鎮座しているところを向いて拝むべきとなれば、日本中、世界中のどこにいても奈良県天理市三島町の方を向いて拝んだり、お勤めをするべきだろう。それこそ方位磁石を持ち歩かなければならない。
 しかし、親神様は本当に本部の甘露台のところに鎮座しているのか?そもそも「この世は神の体や」というのであれば、またおかしな話になってくるのではないだろうか?

百年も前から既に天理教はおかしくなっている

 パソコンで年表を作り、調べてきたことを一つ一つ入力してきた。時系列で並んだ教内の出来事と照らし合わせてみると、いろいろ気づくことが多い。自分の親世代が生まれた頃には既に天理教はおかしくなっていたとわかる。
 それこそ本部員、大教会長は神のような存在で、下から吸いあがったお供えで貴族のような暮らしをしているところもあったようだ。時間をかけて封建的な世界が形作られてきたこともわかる。
 「水を飲めば水の味がする」のように「貧乏せえ」「教祖のことを思えば、苦労するのが当たり前」のように歯を食いしばって通ってきた末端の教会も多い。
 今の自分のように自由に研究し、まとめて投稿などもできないばかりか、本当につらい思いもしてきたのかと思う。既にこの世を去った父(末端教会の子弟)が「教会のことを思えば…」と、お金の面でも運営の面でも心を尽くしてきたことも理解できる。その徳で今の自分がいるのかとも思えてくる。
 別に教団批判がしたくて書いているのではない。「本当にこれでいいのか?」と思うから、Noteに書いているのである。芹沢光治良氏中澤隼人氏など、教団に対して異を唱えてきた人も昔からいたのである。自分も思いがあるのなら、書くべきではないかとも思っている。

おわりに

 何が正しく、何がおかしいのか、それぞれ立場や考え方によっても変わってくるのかとも思う。生きている間に自分の中で「これが正解だ!」と悟れるようなことが起こるのか、わからないまま人生を終えてしまうのか、先のことはわからない。だから真実だけを追求していきたいとも思う。

 いつも読んでくださっている方々に感謝しています。来年も共に道を求めていければとも思っております。よい年末年始をお過ごしください。

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