「さと/\たをと/\びよさま/\」考
天理教の原典の一つ『おふでさき』の17号最後の方に出てくるお歌である。『おふでさき』には難解な言葉もよく出てくる上に、ひらがなだから、どこで区切って読めばいいのかということもある。単語自体がわからず、いったい何だろうと思うことも多いのだが、御三家のことのことを指している位しか知らなかった。
以前の記事で秀司さんの奥さんである「まつゑさん」について『私の「中山松枝」考』としてまとめたこともあり、「びよさま(平等寺の小東家)」についてもさらに深く知りたいとも思った。
『おふでさき通訳』芹沢茂の解釈は次のようである。
これを読んだだけでも、何のことかよくわからない。その当時におやしきにいて、諸事情を知っている者ならわかるのかもしれないが、我々は知る由もなく、わからなくて当たり前なのかもしれない。しかし、教祖中山みきの生家である前川家、教祖長男秀司の子の養子先の村田家、秀司の正妻まつゑの実家である平等寺の小東家のこととなれば、何か重要な意味合いがあるのだろうと想像するのが普通であろう。
でも、よくわからないから益々、興味をそそられるのだが、今一つよくわからない。
いったい、いちれつ心 思案頼むでと言われても、何をどう思案しろというのであろう?よくわからない。何か別な資料があればと思っていたら、『正文遺韻』諸井政一にもあった。少し引用してみるので、読んでいただきたい。
「今の教長様」というのは初代真柱真之亮のことで、おやしきへ移って程ない頃だろうか、この御三家は何か悪いことばかりしていたようにも受け取れるのだが。以前、『私の「中山松枝」考』を書いている時に知ったが、どうもまつゑさんは実家にも教組の目を盗んでは物を持って行ったことがあるようだ。前川家も村田家もよからぬことを繰り返していて、真之亮さんも困って泣いていたのだろうか。親戚筋なのに何をやってるのだろうと感じる。
前の記事『私の「中山松枝」考』でも書いた秀司さんの奥さんの「まつゑさん」だが、前生では三昧田村の前川家の近所の娘さんだったようだ。三年間、可愛がってもらっていたのだろうか。それで今世で嫁として手元へ引き寄せその恩を十年かけて返したというのであろうか。何とも不思議な話だ。まだ続きがあるので、読んでいただきたい。
これは驚きである。「一度にたて合ふて、零落せられたる」というのは、家が落ちぶれていったということになるが、このお道に対して、背くようなことばかりして、お屋敷に対してもひどい心遣いで接していたのだろうか。そうなるのも当たり前のことだと諸井政一さんは感じていたのだろうか。
教組はうちも世界も隔てなしとは常々、聞いているが身内だろうが、親戚筋だろうが、隔てはなく徹底してたのだとわかる。
どうも仲田儀三郎さんのところでも書いたが、一の弟子なのに、その辺が徹底できなく、情に流される面があったのかとも思えてくる。教組は見抜き見通しで、やり過ごしていたのだろうが、「すっかりくさってしもふた」というのもそこにあるのかと思えてくる。
この御三家が落ちぶれてしまったことはわかるが、三昧田の前川家だけは初代真柱の思いで売却されたのを買い戻したようである。何といっても教祖の御生家だからわかるような気もする。ここで、ふと思い出したのであるが、『道の八十年』松村吉太郎に出てくる前川家の話だ。引用するので読んでいただきたい。
昭和4.5.6年頃の話と思われる。本部に反旗を翻した形(前橋事件)の前川菊太郎(教祖から控え柱と言われた人)が、売り払った家だが、結局、買い戻したことになる。ここでちょっと引っかかるのだが、どうして村人たちは教会設置に反対したのだろう。「この松村の狸おやじ奴」とまで言われるのだから、よほど事情があったとも思われる。まだまだ研究の余地はありそうだ。
私の知る限りでは、松村吉太郎は安堵の水屋敷に平野楢蔵と御幣を取り払いに行く時にも、安堵の信者さんたちと一触即発な場面があったようだが、そんな経験ばかりしてる方なのだなあとも思う。自らも書いてるように汚れ役を引き受けたともいえるが、本当のところは迎合派の中心人物であるから、正統派の人々から見れば反感ばかり買っていたのかとも思う。
それはさておき、現代に生きる我々も、よく「教祖様誕生殿」見学に行ったと思うが、宮池も埋め立て、三島神社も移転して、残されたものは減っていくばかりの中でよく残しておいてくれたものだとも思う。
話がそれたので本題に戻ることにする。おふでさきにも出てくる「さと/\たをと/\びよさま/\」だが、教祖にとっては内も世界も隔てないことが更に強く感じられる。この御三家はことごとくお道には反対で、教祖に対してもよくない態度で接していたのかとも思われるが、後に落ちぶれていくぞと予言されていたものであるようだ。しかし、そうであれば、生家の前川家だけ残っているのは教祖の本意に沿ったものであるのだろうか?という疑問も起こる。
なぜなら人間である初代真柱、松村吉太郎の思いで、残したことになるからである。複雑な思いに駆られる出来事でもある。
自分自身が理に徹することができず、情に流されてばかりいるんじゃないかと、かえって反省させられもする。「さよみさん」じゃないけど、「にしきのきれと」見立ててたのに「すっかりくさってしもふた」と言われないようにしなければいけないという、これも「ひながた」なんだろうか。
「これをはな一れつ心 しやんたのむで」17号75
教組はこのひながたを通して、いったい、どのように思案してくれというのだろう。
「流されんなよ!」ってことだろうか?
分からないからまた、暗中模索だ…。
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