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「さと/\たをと/\びよさま/\」考

 天理教の原典の一つ『おふでさき』の17号最後の方に出てくるお歌である。『おふでさき』には難解な言葉もよく出てくる上に、ひらがなだから、どこで区切って読めばいいのかということもある。単語自体がわからず、いったい何だろうと思うことも多いのだが、御三家のことのことを指している位しか知らなかった。
 以前の記事で秀司さんの奥さんである「まつゑさん」について『私の「中山松枝」考』としてまとめたこともあり、「びよさま(平等寺の小東家)」についてもさらに深く知りたいとも思った。
『おふでさき通訳』芹沢茂の解釈は次のようである。

「里」とは前川家(教祖の生家)を、「田音」とは田村の田甚の分家(村田家)に養子に行った音次郎(秀司先生の子息)を、「平様」とは平等寺村の小東家(まつゑ様の実家)のことと伝えられる。(当時人々はそのように呼んでいたのだろうか。)このことについては、おさしづに「三つの知らしてある処」(20・松村栄治郎への指図)「三つの立てやい筆に知らし」(二三・六・二一)などと言及されている。この三つの家について、合図立て合いということを教えておく故、よく注意していよ、と言われたのである。予言とも言えないこともない。これは親神の言われたことは必ず実現するのであるということを納得させようとされたもの、と理解する。おふでさきに誌し、残された親神の思惑を、真実と思って思案しなければならない。

『おふでさき通訳』芹沢茂 P677

 これを読んだだけでも、何のことかよくわからない。その当時におやしきにいて、諸事情を知っている者ならわかるのかもしれないが、我々は知る由もなく、わからなくて当たり前なのかもしれない。しかし、教祖中山みきの生家である前川家、教祖長男秀司の子の養子先の村田家、秀司の正妻まつゑの実家である平等寺の小東家のこととなれば、何か重要な意味合いがあるのだろうと想像するのが普通であろう。
 でも、よくわからないから益々、興味をそそられるのだが、今一つよくわからない。

「さと/\たをと/\びよさま/\」     17号73
「このはなしあいづたてやいでたならば 
         なにゝついてもみなこのとふり」      17号74
「これをはな一れつ心 しやんたのむで」   17号75

『おふでさき』第17号

 いったい、いちれつ心 思案頼むでと言われても、何をどう思案しろというのであろう?よくわからない。何か別な資料があればと思っていたら、『正文遺韻』諸井政一にもあった。少し引用してみるので、読んでいただきたい。

『さと/\』といふは、教祖様のお里にて、即ち三昧田村、前川家のこと、『たをと/\』といふは、田甚の音次郎といふことにて、丹波市のに田甚とて、三昧田村、前川家の親家あり、その別家へ、おやしきのお手掛けの子、音次郎殿入家致されたれば、かくは云うなり。

註 今の教長様十六七才の御頃、此三家代る/\、わるきたくみなせしかば、そが為に、教長様はいたくも困りし事ありと。その間のこと/\、何くれとご相談承りて、涙にむせびし事あり。(辻先生の御話)

『正文遺韻』諸井政一 P239

 「今の教長様」というのは初代真柱真之亮のことで、おやしきへ移って程ない頃だろうか、この御三家は何か悪いことばかりしていたようにも受け取れるのだが。以前、『私の「中山松枝」考』を書いている時に知ったが、どうもまつゑさんは実家にも教組の目を盗んでは物を持って行ったことがあるようだ。前川家も村田家もよからぬことを繰り返していて、真之亮さんも困って泣いていたのだろうか。親戚筋なのに何をやってるのだろうと感じる。

『びよさま/\』といふは『平等寺』のことにて、平等寺の御親家といふは、小東政太郎とて、善衛門様の御内室の出所なり。三家は、みなご親族にてありながら、神様の道を嫌ひ、教祖様に對しては、聊かも親切をつくしたることなしといふ。
 それ故に、何萬といふ程の身代も、諸事都合悪しくなりて、此の御咄ありてより、十年立ち經ざる内に田地、畑地は申すに及ばず、家屋敷迄粉もなき様に成り果てたり。

註 小東家より御入嫁相成りたる御方は、まちゑ様と申して御入嫁後、十年ばかりにて御身まかりましけり。其後教祖様御咄に「此者は三年世話になりて、十年世話をしかへしたるにより、も早恩はかへし終りなり」と。そは此方前生に、三昧田の御生家の近隣の娘にて、教祖様御嬰児のころ、三年守をなしたる者なりといふ御咄あり。即ちこの事を世話になりしと仰せらるゝなり。

『正文遺韻』諸井政一 P239

 前の記事『私の「中山松枝」考』でも書いた秀司さんの奥さんの「まつゑさん」だが、前生では三昧田村の前川家の近所の娘さんだったようだ。三年間、可愛がってもらっていたのだろうか。それで今世で嫁として手元へ引き寄せその恩を十年かけて返したというのであろうか。何とも不思議な話だ。まだ続きがあるので、読んでいただきたい。

さて、此の咄、合図たて合ひと仰せある通り、一度にたて合ふて、零落せられたるは、實に恐れ入りたることにて、何につきても此道にそむき、御屋しきをあだに思ふ心にでは、皆、此通り相成るに相違なきなり。則ち、内も世界もへだてなし。又善も悪も、内から雛形が出してあると、かね/\聞きた侍るにつきても、さこそとなん感じ入る外なし。
因みに記す。三昧田村、前川家のみは、一時家屋しき賈却致せしも、教祖様、御生家のことなればと、今の教長様が深き思召を以て、直様、御買戻しに相成り、家屋敷だけは元の如くのこりあり。又小東家に對しても、今の教長様、目をかけ給はりしも、再びまで家屋敷賣却成して、教長様の御志をも無になしてけるとなん。あなかしこ。

『正文遺韻』諸井政一 P240

 

これは驚きである。「一度にたて合ふて、零落せられたる」というのは、家が落ちぶれていったということになるが、このお道に対して、背くようなことばかりして、お屋敷に対してもひどい心遣いで接していたのだろうか。そうなるのも当たり前のことだと諸井政一さんは感じていたのだろうか。
 
教組はうちも世界も隔てなしとは常々、聞いているが身内だろうが、親戚筋だろうが、隔てはなく徹底してたのだとわかる。
 どうも仲田儀三郎さんのところでも書いたが、一の弟子なのに、その辺が徹底できなく、情に流される面があったのかとも思えてくる。教組は見抜き見通しで、やり過ごしていたのだろうが、「すっかりくさってしもふた」というのもそこにあるのかと思えてくる。

 この御三家が落ちぶれてしまったことはわかるが、三昧田の前川家だけは初代真柱の思いで売却されたのを買い戻したようである。何といっても教祖の御生家だからわかるような気もする。ここで、ふと思い出したのであるが、『道の八十年』松村吉太郎に出てくる前川家の話だ。引用するので読んでいただきたい。

その頃の、三昧田の前川家は住む人もなく荒廃にまかせ、夏などは丈なす草がはびこる有様であった。いうまでもなく、前川家は、わが教祖様のお生まれになった由緒の深い家である。それが無人の家になっているのは教祖存命の理を説く私にはたえがたいことであった。
本部の内諾を得てすぐに礼拝殿その他の建築に着手した。昭和六年三月二十九日が三昧田への私の足の運び初めで、それから寸暇を見つけては村人への匂ひがけに運んでいた。昭和四年四月には落成奉告祭を行うまでに漕ぎつけたものの、村人はこの教会設置に非常な反対をした。昭和六年の現代においては、ちょっと想像もしかねるような妨害を試みた。その日は、真柱様のお出でもいただいたが、中には竹槍をこしらえたり人糞を桶に入れて積み重ねておいて真柱様の頭の上からふりかけようとした者もあった。又中にはわら人形をを造って、それに着物を着せかけ、案山子のように村道の辻に立たせて、「この松村の狸おやじ奴、このアホンダラ奴!」と云って頭を一つづつ叩いて通る人もあった。

『道の八十年』松村吉太郎 P370-371

 昭和4.5.6年頃の話と思われる。本部に反旗を翻した形(前橋事件)前川菊太郎(教祖から控え柱と言われた人)が、売り払った家だが、結局、買い戻したことになる。ここでちょっと引っかかるのだが、どうして村人たちは教会設置に反対したのだろう。「この松村の狸おやじ奴」とまで言われるのだから、よほど事情があったとも思われる。まだまだ研究の余地はありそうだ。
 私の知る限りでは、松村吉太郎は安堵の水屋敷に平野楢蔵と御幣を取り払いに行く時にも、安堵の信者さんたちと一触即発な場面があったようだが、そんな経験ばかりしてる方なのだなあとも思う。自らも書いてるように汚れ役を引き受けたともいえるが、本当のところは迎合派の中心人物であるから、正統派の人々から見れば反感ばかり買っていたのかとも思う。
 
 それはさておき、現代に生きる我々も、よく「教祖様誕生殿」見学に行ったと思うが、宮池も埋め立て、三島神社も移転して、残されたものは減っていくばかりの中でよく残しておいてくれたものだとも思う。
 
 話がそれたので本題に戻ることにする。おふでさきにも出てくる「さと/\たをと/\びよさま/\」だが、教祖にとっては内も世界も隔てないことが更に強く感じられる。この御三家はことごとくお道には反対で、教祖に対してもよくない態度で接していたのかとも思われるが、後に落ちぶれていくぞと予言されていたものであるようだ。しかし、そうであれば、生家の前川家だけ残っているのは教祖の本意に沿ったものであるのだろうか?という疑問も起こる。
 なぜなら人間である初代真柱、松村吉太郎の思いで、残したことになるからである。複雑な思いに駆られる出来事でもある。

 自分自身が理に徹することができず、情に流されてばかりいるんじゃないかと、かえって反省させられもする。「さよみさん」じゃないけど、「にしきのきれと」見立ててたのに「すっかりくさってしもふた」と言われないようにしなければいけないという、これも「ひながた」なんだろうか。
 
「これをはな一れつ心 しやんたのむで」17号75
 
 教組はこのひながたを通して、いったい、どのように思案してくれというのだろう。
「流されんなよ!」
ってことだろうか? 

分からないからまた、暗中模索だ…。


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