教祖中山みき様の長男秀司さんの正妻である「まつえ」さんだが、秀司さんと30歳も歳の差があり、親子ほどの歳の差にもかかわらず、どうして教祖がもらってくるとなったのか、またそれだけでなく、秀司さんの出直し後、翌年に32歳の若さで出直したのかも気にはなっていた。またいろいろ調べるうちにどうも人物像が描けないことから、更に詳しく調べてみようという気になった。
教内で知られている「まつえ」さんは平等寺村の小東家の娘さんで松村家へ嫁いだ「さく」さんの妹で、明治2年の19歳の時に49歳の秀司さんと結婚している。『天理教事典』おやさと研究所編を読んでみると「まつえ」さんの実家は平群の資産家だったようだ。父の小東政吉は金貸しをしていたようだが、取り立ても厳しく、あまり評判はよくなかったようである。小東家の没落についても教祖は予言されていたようである。
一般的に教内では歳の差もあるが、因縁のある人だから、教祖が直接出向いていって話をつけて結婚ということになったのであろうが、それ以外にあまり話が出てこないように感じている。しかし、異端についても研究していると、けっこう「まつえ」さんの話が出てくる上に、秀司さんが在世の時のおやしきの様子も見えてくるように感じたので、まとめてみることにした。
『おふでさき』第1号には秀司さんとまつえさんのことが書かれている。
内縁のおちえさんと息子の音次郎を実家に帰して、若い正妻をもらえとのことであるが、秀司さんはおちえさんの前にも内縁の人おやそさんがいて「お秀」さんという娘までもうけている。普通に考えて、かなり無理のある縁談である。魂の因縁があるからと父親の小東政吉にもいろいろと説いたのであろう。
芹沢光治良の『教祖様』ではまつえさんの話が結構出てくる。少し引用することにする。
これ以外にも『教祖様』にはまつえのエピソードが出てくるが、どうもまつえは教祖の末娘である「こかん」さんにも辛くあたっていたようだ。秀司と結婚した時、まつえは19歳だったが、その時、こかんは33歳である。こかんは明治8年に出直しているので、約6年間、二人はかかわっていたはずだ。
結婚もせず教祖のそばにいて、櫟本を行ったり来たりしていたのであるから、さぞや辛い思いをしただろう。まつえからどうして嫁に行かないのかと傷つくようなことも言われたであろう。
こかんは梶本へ嫁いだ姉の「おはる」の後添えとして嫁ぎたい気持ちもあっただろうし、それを後押ししていたのも秀司、まつえ夫妻だっただろう。まつえの出直しについて『教祖様』では当時の信者たちの話があるが、どうもきつい性格だったようだ。また来世は牛馬に生まれ変わるとも言われていたようだ。芹沢光治良はこの件に関して天理教校別科(修養科の前身)でそのように聞かされたものがかなりあるようだと書いている。(365頁)これに関しては他の資料でも意外なことがあるので、大平隆平の『新宗教』から引用する。
読者の方は読んでみて、どんな感想を抱くだろうか。どうも秀司さんもまつえさんを娶ってからは大変だったことが窺われる。『新宗教』には本席の息子「飯降政甚」の談が載っているが、引用するので読んでいただきたい。
本席の息子政甚さんは子供の頃、既におやしきへ移り住んでいたはずだから、直接、見聞きしていたことを述べたのであろう。しかし、あまりに内容が衝撃的なのと我々が習ってきたことと違うので、戸惑うことも多いのではないだろうか。これについては政甚さんの言を裏付けるような安堵の大道教の資料もあるので、後で紹介する。
政甚さんの話の続きを引用するが、まつえさんが出直してからの話である。
読んでみてどのような感想を持つであろうか。私は当時の本部の中にいた飯降政甚氏が語ったことは信じられなかった。まず、まつえさんが、牛馬に落ちたどころか、イタチに生まれ変わったというのもショックだが、どう考えても本部が不利になる事ばかりである。本部の中でも大問題になっただろうことは想像に難くない。しかし、次の飯降政甚の文を読んで納得がいった。
これを初めて読んだ時に、私は何とも言えない気分になった。今まで教えられてきた話や信じてきたことが真実だったのだろうかという思いに駆られる。教祖伝でも逸話編でもあまりにきれいな話に作り替えられていたのかとさえ思った。飯降政甚の姉である「芳枝」さんが嘘を言っているとも思えないし、父である飯降伊蔵本席とも話していることから事実だと思える。
教祖には我が子、人の子の隔てはない。そして理というものは、たとえ教祖の親族であろうが因縁の魂であろうが公平に回って来る。「天理」は公平無私のものであるということだ。
現代に生きる我々は何を信じればいいのだろう?
結局のところ皆が望むのは真実ではないのだろうか。
飯降政甚氏は更に述べている。
本当に本部では一大事だったのだろう。しかし、こんな昔から今の時代に至るまで同じことを何度、繰り返しているのだろうかとも感じる。インターネットが普及した現在、昔とは比べ物にならないくらい情報伝達は進んでいる。昔は紙媒体しかなかっただろうから、情報統制もしやすかったであろう。
『新宗教』ではもっと生々しいことも書いてあったが、本部でもその対処に苦慮したであろう。お金も使い、買収や隠蔽工作もしたのは想像に難くない。そのような体質はお供えがどんどん集まっていた頃には安いものだったのかもしれない。
大平隆平は大正5年に31歳の若さで亡くなっているが、御母堂さんや山澤為造さんにも改革を促していたようだ。大正5年というのは教祖30年祭の年である。以前に紹介した“井出クニ謀反”の年でもある。何となくこれも因縁めいた話ではあるが、この頃には既に天理教は大きな教団となっており、封建主義的な体制になっていたのだとわかる。
長くなったので、一旦、ここで終わり、次回では他の資料をもとに続きを書いてみたいと思う。
私の「中山松枝」考…その2につづく