戦後の「復元」の教理について3
「復元」をテーマに2回ほど書いてみたが、第二次大戦後、日本が自由で民主的な国に生まれ変わり、それまでの弾圧さえていたことから解放され、「復元」という名のもとに教祖の教えに戻ったとばかり信じていた。しかし、天理教のことを詳しく調べるようになってから、完全な「復元」とは言えず、将来にわたって天理教の教団が安泰になるように行われたものだったのかとも思うようになった。
それでも教会長、布教所長、信者は戦後、新しい時代が来て信仰に炎を燃やし別席団参などにも力を入れて、多くの別席者も作り、お供えも集めてきたのだろう。今、50代から80代の人は皆、それを実際に経験してきたのかと思う。戦後すぐの昭和21年の教祖60年祭と10年ごとに年祭が行われるが、70年祭、80年祭、90年祭を経験し、そのにぎやかな雰囲気やどんどん建てられる「おやさとやかた」を見ながらお道は発展したものだと感じていたことだと思う。筆者もそうであった。
しかし、100年祭を期に教勢は衰え始め、教団批判も多くなったように感じる。調べてみればわかるが、それまでも事件や不祥事はあったが、新聞で大きく取り上げられたり、ニュースにならないのは緘口令が敷かれたのかとも思う。最近でも本部員の子息が横領したというニュースがあったが、大きくは取り上げていないように感じる。
話を「復元」に戻すが、教えが復元されたのではなく、二代真柱は古老の話などで不正確なものは取り除き、洗練されたものにしようとしていたようだ。天理教は国家に追従し、飯降伊蔵本席の帰幽後、明治41年に天理教一派独立を果たしはしたが、大正5年の教祖30年祭の頃には異端事件も起こり、混乱する教団を守るため、また神の代理者として二代真柱の立場を確固たるものと整えていく上で、当時の教団上層部の人は苦心したのであろう。ご母堂(たまえさん)や本部員松村吉太郎が将来の教団安泰を願い、二代真柱育成や教団組織の充実に苦心したのかと思われる。
「死の扉の前で」を読むと教団の中にはそんな教団に対して異を唱える教内の者も多かったようだ。しかし、そんなことは公に口には出せなかっただろうし、当時の知識人であり、真柱と親交もあった芹沢光治良に打ち明けたのかとも思える。本部員の中でも確固たる信仰を持ち、教団のことを憂いている者もいたようだが、二代真柱が全権を握り、江戸幕府にも似た封建体制の中で喘ぐしかなかったようだ。こういった話は天理教の公式な本の中には書かれることもなく、後世の人が目にも、耳にもすることがない。天理教切っての宗教学者と言われる諸井慶徳や、芹沢光治良が天理時報に「教祖様」を連載するために資料を提供し、協力した山澤為次の話も出てくるが、教団内の複雑な人間関係や真柱絶対君主の中では天理教学を自由に研究することも憚られたようだ。
「復元」の中に出てくる著者名を挙げれば上田嘉成、諸井慶徳、山澤為次、上村福太郎など錚々たる本部員の名前がある。その他にも天理大学教授の高野友治もあれば、本部を辞職した橋本清の名もある。昭和初期の天理教で活躍した知識人として知られている中西牛郎、宇田川文海の名も出てくる。「死の扉の前で」を読んでいるとその時代の本部員の中でも教祖を慕い、革新で歪められた天理教を本当に復元したいと望んで研究していた者もいたのかとわかる。中央集権的なこの教団の中では異を唱えたり、二代真柱に進言できる人がいなかったのかとも思われる。それほど二代真柱の権力は強大だったのかと知ることになるが、神の代理者として思いのまま二代真柱は孤独で63歳で亡くなるまで走り続けていたのかとも感じる。
天理教という宗教団体の問題点は、やはり人間が作った組織であるからなのかと思う。教理では人間は皆、平等で男松女松も隔てなくと言われているのに人間思案と組織安泰の為に江戸幕府にも似た真柱専制の体制を築き上げてきたところにあるようだ。真の「復元」はこれからなのかとも思えるが、それには自由な教学研究と組織の改革が必要なのではないかとも思う。
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