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天理教の大正3・4・5年頃の混乱

 天理教の歴史を調べていて、大正初期もかなり混乱していた時期だと感じる。まず大正3年と言えば第一次世界大戦の勃発である。またこの年は初代真柱、控え柱の前川菊太郎が出直した年でもある。正善二代真柱はまだ10歳の子供であるから、山澤為造管長摂行者として天理教を引っ張っていた時代である。御母堂さん(たまえさん、初代真柱の奥さん)は39歳である。教団上層部は何でもかんでも、とにかく二代さんを立派に育て上げ、体制を整えたいと頑張っていた時代ともいえる。

 大正4年には小川事件(天理教一派独立に関係する贈収賄容疑で松村吉太郎が逮捕・収監された事件、後に無罪)、天理中学校長でもあった広池千九郎博士(歴史学者、教育者、法学博士であり、モラロジー(道徳科学)の提唱者)の辞任もあり、翌5年教祖三十年祭を控えていた時でもある。以前の記事(播州のおやさま)にも書いたが、教祖三十年祭と言えば“井出クニ謀叛”の時である。この時期、教団の中心人物である松村吉太郎は奈良監獄に収監されていたようだが、もし、教祖殿にいたら、どうなっていたのだろうとも思う。いったいどれだけ混乱していたのかとも思われる。

余談になるが、広池博士の辞任に関しては桜井良樹氏の論文が詳しい。
『大正四年の二つの資料』

 また、『新宗教』の大平隆平と『みちのとも』の記者であった奥谷文智の応酬も興味深い。まずは奥谷文智の文を読んでいただきたい。

『事情なければ心が定まらぬ』
 松村教正の御入監後、前管長夫人よりは逸早く『御神楽歌』を差入れられ続いて間もなく拙著『天理教祖観』が東京から到着したので、直ちに之れをも差入れた。教正は独房の中にあつて読書を唯一の楽として居られるらしいが、其の書物も教正からの希望で、大概は本教に関するものばかりである。必ずや獄中私かに教祖を偲び奉り、深い教理の修養に耽らるゝ事であらう。『教祖に帰れ』とは数年以前から屡々耳にする処である。或者は其の声に和して慌て者が火事に出会つたやうに『天理教革命の声などゝ叫び出したりして居る。教祖が豊田山に埋れておいでになると思へばこそ、そんな小細工も弄して見なければならん、なんぞ図らん教祖は生き通しである。豊田山には御遺骸があるばかりだ。見よ教祖は我等の凡眼にこそ見えね、儼然として白日の中に立つて世界をろくぢに踏み平らすべく大車輪の活動を日夜継続し給ふではないか。初代管長公の御帰幽も、広池博士の引退も、松村教正の収監も天理教徒の惰眠を鞭撻し給ふ教祖の御働である。神の啓示である。

「道の友」8月号

 天理教の革命を訴える大平に対して奥谷はこの大正初期の初代真柱出直し、広池辞任、松村吉太郎の収監もご存命の教祖の働きであり、神の啓示であると説いている。それに対して大平はその時期の天理教衰微の原因を説いている。堕落した天理教教団に対して教祖立教の精神に立ち返るべく覚醒を促がしているのが大平の言い分のようだ。
大平の反論から抜粋するので、次の文も読んでいただきたい。

 君は自分達(或は自分丈けかも知らない)を痛罵して或者は其の声に和して慌て者が火事に出会つたやうに『天理教革命の声』などゝ叫び出したりして居ると云つて居るが其んなら君が今年の五月号か六月号かに書いた教祖に帰れと云ふ一文は一体何う云ふ動機で書いたのですか? 既に教祖に帰れと云ふ其処に教祖と離れたる何等かの点がなければならぬ筈である。而かも其れと同一の目的を以つて実際に教祖の精神の復活者が表はれるや之れを喜んで迎ふべきに却つて堂々たる天理教の機関雑誌の記者にも似合はず自己の人格を無視し同時に相手の人格を無視した冷罵を浴びせかけて得々然として居るのは何の為めであるか?

『新宗教』大平良平

 これらの論争から105年が過ぎた令和の時代に生きる我々からすれば、お二方とも熱い思いがあったのだと受け取れるが、現代にも通じる問題が100年前から続いているのだと思うと、何とも言えず、ため息が出てしまう。
 どちらが正しいとか、間違っている問題ではないのかとも感じる。立ち位置が違うから言い争わざるを得なかったのかとも感じる。思いは同じものがあったのではないのかとも感じる。

 先に紹介した広池博士は自らの至らなかった点を反省もし、後々、モラロジー(道徳科学)を提唱されているが、教団を離れて正解だったのではないかと感じる。私には当時の教団上層部の人より、よほど教祖の教え、本来の天理教の教えも深く理解されていたのではないかとも思える。

 令和に生きる我々は歴史を俯瞰して見ることができるのだが、天理教の歴史はこの後、大正7年に本部員である茨木基敬に天啓があったとされる「茨木事件」が起こり、茨木基敬を罷免し、ナライトさんから御母堂さんがおさづけの理を運ぶようになり、大正10年には松村吉太郎の倍化運動が行われ、一気に分教会数が増えた。また、この頃からハッピを着ることが広がったようである。以前に書いた「迎合派」の完全勝利であり、勢いに任せて今の体制に続く組織の骨組みが固まった時期でもあるように感じる。4年後には大正期が終わり、昭和元年に教祖四十年祭二代真柱の東京帝国大学入学となり、現在の天理教に続いていくことになる。

 つまり、前の記事「異説や異端の毒やほこりを不幸にしてのみこんでしまった者の戯言」でも書いたが、本部に異を唱えるものは全て排除で、「異説・異端」には一切、受け入れない体制が整った時期であるともいえる。

 私のご先祖さんが因縁納消のため、田畑を売り払い、家族全員で小さな教会へ移り住み、食うや食わずで、布教に歩いたと聞いているが、上記の時期を通って、今の教会の姿になっているのかと思うと、感慨深いものがある。しかし、その教会も立派な普請も行い、土地も買い、マイクロバスも何台も止まれるような駐車場もあるような教会になったが、果たして教祖のお望み通りだったのだろうかという思いがする。

 こんな研究ばかりして、「異端・異説」の毒にすっかり侵され、「解毒」できないまま、「ほこりの館」となり、教祖から「すっかりくさってしまふた」と言われないないようにしたいものだ。


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