「耳うつし」について
天理教を信仰している人にはあまり耳慣れない言葉かもしれない。私自身もそうであったが、天啓者というのはこの「耳うつし」で神が語りかけてくるようだ。幻聴とか、精神的におかしくなっているとか、言い出したらきりがないが、神が語りかけてくるのであれば、聞くしかない。この「耳うつし」という言葉を初めて知ったのは高井猶吉さんの話からである。
不思議な話であるが、どうも神は認めた人間には「耳うつし」で語りかけるようである。他に「耳うつし」という言葉を見かけたのは、安堵村の飯田岩治郎の「水屋敷人足社略伝」である。少し引用する。
この「耳うつし」があった頃、教会本部ではいよいよ講社一般に神霊を鏡にして祀らせるということで数百万の鏡を鋳造している頃で、そのことを飯田岩治郎は「耳うつし」で告げられたようだ。結果的にはこのことが発端で天理教から離れていくわけだが、人間中心の本部にはついていけないと感じていたのだろう。その後、何度も「耳うつし」はあったようだ。
「耳うつし」は教祖中山みき、飯田岩治郎だけでなく、「ほんみち」の大西愛次郎にもあったとされている。極端な話、確認する術はないのであるから、「耳うつし」のあった本人の言を信じるか信じないかの話になる。神様から「耳うつし」があったと、好き勝手なことを言っていればいいのだが、それでは誰も信じないばかりか、頭がおかしいと思われるだけである。しかし、それが予言的なものであり、何度も的中すれば、誰もが信じざるを得なくなるだろうし、本物だと認めざるを得なくなるであろう。
北大教会初代で本部員の茨木基敬にもそれはあったのだろうが、人々が信じるに値するほどのものがあったから、多くの人がついていったのかとも思える。神懸かりを確かめるために来た本部員(増野正兵衛、喜多治郎吉、諸井國三郎、梅谷四郎兵衛、井筒五三郎)も本物だと感じていただろうが、本部側では認めるわけにはいかないから、相当困ったことであろう。認めてしまったが最後、教祖亡き後、本席のように伺いを立てていかなければならないのだから。二代本席を認めるわけには絶対できないわけだから。
結局、この本部員たちも真実を本部に伝えることをせず、初代真柱も神懸かりを認めなかったことから、神の怒りに触れて大正3年~8年の間に初代真柱を筆頭に、順番に出直してしまったようだ。茨木基敬はそのことも予言していたそうだ。そんなの偶然にすぎないと思うかもしれないが、茨木側の言い分ではそうなっている。
私は予知能力とか、予言とか、何かオカルト的なことは基本的には信じない方である。現代に生きているわけで非科学的なことなどは、自分の目で確かめない限り、信用できないものだと思っている。「天理の霊能者」豊嶋泰國著を初めて読んだ時、信じられないことばかりであった。だから、それが真実なのか確かめる意味で自分の足で訪問し、話も聞いてみたり、資料をもらったりして確認している。そういった確認作業をしている過程で「天理教」はとにかく隠蔽していることばかりだと感じた。教祖の教えのいい部分ばかりを利用して人と金を集めることに熱心な宗教団体だったのかとも思った。もちろんすべてがそうだとは思わないが。
そろそろ茨木基敬のことも一つの記事としてまとめたいと思っているが、茨木基敬の素晴らしいところは、当時の天理教教会本部は教祖三十年祭にともなう「大正普請」と言われる本部の神殿普請に本部員として反対していたことだ。信者に必要以上に金銭的に負担をかけてはならない。無理に寄付金を集めれば信者の惜しいという埃がついているので神も喜ばないと反対していたことだ。これは現代の「おやさとやかた」ふしんと同じではないか。
本部員なのに、そんなことを言えば出世に響くであろうし、松村吉太郎や初代真柱からも疎ましく思われるのは明らかだ。案の定、罷免されてしまう。しかし、それを実践していたからこそ、神の目に適ったのであり、神懸ったのだともいえるのではないだろうか。私はそう思っている。
万が一にも受け入れていたら、今頃、天理教は大きく変わっていたこととも思う。恐らく、中山家、飯降家、茨木家というような家系ができていたことだろう。
こんな事実は天理教内で知られていないだろうし、「茨木事件」という異端の事件があったと、深く調べたり、事実はどうであったのかなど研究されることさえ少ないように思う。つまり、本部員が神懸ったという大事件であるにも関わらず、「異説・異端」の一つと簡単に片づけられているのが現実だ。とにかく天理教内では「異端」というレッテルを貼った事項に関してはタブー視する風潮があるように思う。一般信者には知られてはまずいことだらけなのだから、天理教史の年表でも「~事件」と一行、載せるくらいで済ましておかないと、根掘り葉掘り、調べられたらまずいことになるわけである。しかし、時代は変わったのであり、神は人間にインターネットという道具を与え、発展させ、真実を見極めろと導いているように思う。
上記のような「耳うつし」があったか、どうかは定かではないが、いろいろ研究していく上で、自分で知ったことや悟ったこと、感じたことは、偽りなく書かなければならないとも思っている。
黙っていて、神の怒りに触れるようなことはしたくない。
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