続かない制度や習慣
大教会青年さんが減っている
先日、所属の会長さんと話をする機会があり、いろいろ話したが、大教会で青年さんが、ほとんどいないということだ。耳を疑ったが、昔であれば10人前後の若い青年さんが住み込んで、それぞれ大教会の御用をしていたはずだ。しかし、いないとなれば事務所当番や大きい神殿掃除など、どうするのだろうとも思った。教会長さんの持ち回りで、当番制でやるにしても年配の会長さんたちばかりでは大変なことである。
田舎にある大教会のこととて、普段は参拝者もあまりなく、のどかな雰囲気なのはいいが、神殿など施設も大きいだけに、手が回らなくなることも多いのではないだろうか。やはり、組織というものは生物の進化と同じで、環境に適応していかなければ存続が難しいということなのだろうか。少子高齢化など社会の環境の変化に応じて、変えていくところは変えていかないと、存続さえも難しくなっていくのではないだろうか。
大教会青年の制度
天理教では「大教会青年」ということで、学業を終えた若い人を大教会に住みこませ、「青年さん」という形で数年、勤めさせることが多いようだ。大教会ごとに2年の場合もあれば、数年にわたる場合もあるようだが、小遣い程度しかもらえないと聞く。「衣食住」は大丈夫だが、早朝から神殿掃除や事務所当番、行事がある時は、その準備などやることも多岐にわたり、勇んでやっている人と、無理やり勤めさせられているという人といるようで、ギャップも大きいように思う。
これは昨今の外国人の「技能実習制度」にも似ている面があるように思う。少子高齢化で労働力が不足し、それを補うために「技能実習」という名目で外国から人材を集めるわけだが、実態は技術を学ぶ研修というよりは実質的な労働力を求めている面もある。「青年勤め」という形で若者を集め、実質、大教会の労働力として使っている面もあるのではないだろうか。いや、そんなことはないと反論が来るかもしれないが、本人たちの本音をきかなければわからないことである。
青年さんの育成
だいたいは分教会の後継者が修行のような形で、勤めることが多いと思うのだが、問題があるようにも感じる。自ら勇んだ気持ちで勤めるより、仕方がないから行っているというケースも多いのではないだろうか。勤めている間に多くのことを学び、それを活かして自教会へ戻ってからの糧にするという意志で積極的に勤めていれば、意味もあるだろうが、私には多くの青年が強制的に行かされ、無駄に時間を過ごしているようなケースも多いように思える。何より学業を終え、就職して、それなりの給料をもらっている友達たちに会えば、辛く感じることもあるのかとも想像する。それが修行だと言ってしまえば、終わりであるが…。仏教系の寺院などでは、もっと過酷なところもあるのかもしれない。それはともかく精神的に厳しくなるのは見えている。「我慢や忍耐」を覚えることは大事である。しかし、それができるのは「希望や努力した実感」があるからであり、何もなければ自ら考えもしない従順で、体制に流されるだけの人間になってしまう。そんな人材を育成するために大教会青年勤めはあるのだろうか。
ましてや実質的に上下関係があり、固定された縦系統の教会制度の中に組み込まれるのだと思えば、勇めるはずもない。天理教の中では優しくて親切でいい人が多い。しかし、それは従来からある育成制度のせいで従順で、上に従っていれば安泰ということを植え付けられてきた結果とは言えないだろうか。
私が問題だと感じるのは若者の育成面である。結局、今の制度では若い人が行きたがらないばかりか、会長である親も行かせたがらないのではないだろうか?もちろん教会ごとで若者の育成を考え、プログラムを組み、本人が勇むように導いているところもあるのかもしれない。しかし、昔から大教会へ行って、多くの青年さんたちとも交流してきたわけだが、前向きというよりは、いずれ教会を継ぐのだから、通らなけれなばならないと来ている人が多いように感じていた。
固定された身分制度
天理教が大きく発展してきたのは時代に応じた組織運営があったからだとも思っているが、時代は変化し、社会の状況も変わってきている。過去の成功例だけで、変えようとしないのであれば、時代に遅れて衰退してしまうのは世の常である。資本主義、自由主義、実力主義の日本社会で若い人が夢も持てずに、前向きに生きられないとすれば悲しい話である。実質的に固定されたカーストのような身分制度があり、家柄で人事も決まり、「理の親」という言葉で、考えるより従うように仕向けられ、理不尽に感じても、口には出せないようなところで、若者が育つのであろうか?甚だ疑問である。
「どうせ言っても無駄だ」「がんばったところで変わらない」となれば、惰性で生きていくしかない。そうやって従順で何でもいうことをきき、組織のコマとして動いていく人間を育成しているのだろうか。昔からそれに反発して出ていく若者もいたように思う。しかし、世間の荒波にもまれて、その後は成功したものもいれば、戻ってくるものもいたように思う。ここに、やはり大きな問題が潜んでいるようにも思う。これは地方の教会だけでなく教会本部でも同じことである。
表向きにはそんな「身分制度」はないのかもしれない。しかし、現実に縦系統の教会制度があり、末端に生まれれば、お供えの上納制度が存在し、その上下関係がひっくり返ることなど、よほどの事情がない限り、変わることもなく固定されていると言える。
コロナも終息の兆し
新型コロナもようやく終息の兆しも見え、中止されていた行事なども復活し始めているように思う。しかし、このコロナ禍は従来のおかしな部分を見直すように与えてもらった「ふし」でもあるように、私は捉えている。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言われるが、今一度、いろいろと考えてみる必要があるように思うのは私だけではないようにも感じる。
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