談じ合ってみたい「車中八策」
天理教教会本部は、時代に逆行していることが多いような印象をもってるが、以前の記事にも書いた通り、別席者数にしろ、『みちのとも』の教勢の推移を見ても、明らかに衰退している。教団としての教勢が、伸びようが、衰えようが、神の計らいであるのなら、受け止めなければいけない。
21世紀になり、科学が進歩し、世界は平和で、陽気な世界になると思っていたが、現実は、その反対で、神からの厳しい試練が、続いているような状況だ。人類が大きく脱皮する前の段階なのかとも思えるのだが、実際のところ、どうなのだろう。神と通じる教組や、本席のような「月日のやしろ」がいればお伺いしたいものだ。
今の少子高齢化社会の日本では、地方の過疎化は深刻で、小中学校の統合や閉鎖、高齢化に伴う介護の問題、地域社会の基盤を担う労働力の不足など挙げればきりがない。従って、労働力不足は、外国人に頼らざるを得なくなっている。今後は、教えを広げる対象も、国内の外国人も、視野に入れなければならない。日本国内においても、海外布教をしなければならない状況になるのではないだろうか。
しかし、今の「天理教」のままでは、異文化を持つ人々には、受け入れがたいことも、多いと思われる。そもそも、教祖の教えというのは「日本人向け」というものではないはずだ。世の中を、陽気な社会へ導くための教えだと考えれば、国内外を問わず、普遍的なものであるはずだ。
天理教は、学問はいらないと、子弟に教育を与えず、従順で思考することをしない「よふぼく」を育成することが、よしとされてきた感があると思っている。その元になっているのが、「学者、金持ち後回し」という言葉や、「お道に知恵学問はいらない」といった言葉なのかと思っている。
しかし、それは曲解も甚だしいもので、学者は、才能もあり、知識も豊富であるがために素直に物事を受け入れる事が難しく、また金持ちは、自我が強く、お金で苦しんだこともないがために、高慢になりがちであり、教えがなかなか届かないことを、諫めた話であると、私は理解している。
しかし、曲解され、ひながたを通るという言葉から、貧に落ちきれと、自らの生活が苦しくなっても、上級へと尽くしきることが天理教では、美徳とされてきたのではないか。
いまだに、そのような路線は、続いているようにも見受ける。このような体制では、次世代を担う若い人の人材育成など、夢の話ではないだろうか。大きな改革なしには、存続さえ、危うくなるのではないかとも思える。
前置きが、長くなりすぎたが、「ジロウ閑話休憩…1」で、書いていた「車中八策」の構想だが、思いつくままに、書いてみる。稚拙な案であり、宗教学や、哲学の専門家でもない一天理教信者の妄想に過ぎないが、現在の天理教の制度では、天理教教会本部は、どんどん人が減り、地方の教会も、疲弊し、後継もおらず、若い人も離れていく現状を考えれば、皆が声をあげていかなければならないと考える。
「車中八策」
「神のやしろ」を迎え、教祖、本席時代のように神に伺いを立てる体制に復元する
天理教教規を改定し、本部員会議を廃止し、議会で民主的に物事を決め、神に伺いを立てること
上下議会を設置し、全国から議員を推薦し、任命は真柱が行う。尚、議会には女性の議員を一定数置くこと
縦割りの教会制度、及び実質的な世襲を廃止し、地域ごとのコミュニティが活発化する体制を作ること
お供えという名目の集金体制を改め、会費制のような会計制度にかえること
別席制度を見直し、真のよふぼくの育成につとめること。おさづけは「神のやしろ」から拝戴する
天理教教義及資料集成部の資料は自由に閲覧でき、誰でも自由に研究できる体制を整えること
広く人材を登用し、教理の研究、教理に基づいた行事・活動が行える体制を整えること
あまりに荒唐無稽で、何を言ってるのかと一蹴され、ご批判を受けるようなものばかりであるが、それぞれの項目を挙げた理由や、思いを、次に述べていくことにする。
1は、根本的な問題で、神を無視し、人間中心になってしまった教団を、教祖・本席時代に「復元」することを考えてのことだ。しかし、「神のやしろ」と言っても、天理教の歴史では、神懸かりがあったとしても、異端として片づけられ、タブーにされていることが多く、いくら本物が、出てきても認められないだろう。
つまり、根本的に「復元」など、絵に描いた餅にしかならない。まずは本物が、出てきた場合の対応から考えなければならない。また、仮に、本物の天啓者が現れたとしても、人間であり、別科別鍋で、心を汚さず、ほこりのつかないようにしなければ、人間心が混ざるようになり、神は退いてしまうように思われるので、その辺の事情から、整備していかなければならない。「飯降本席」時代からナライトへの橋渡しがだめになった歴史から学ばねばならぬと考える。
2は最高決定機関である本部員会議だが、本部在籍者で、民主的に意見を吸い上げ、討議されているとは思えない。(二世、三世議員ばかりの国会に似ている)更には、本席時代のように、神に伺いをたて、指示を仰いでいるわけではないから、結局、人間の都合で物事が決まってしまう。
しかし、人間が合議したものを、神に伺いをたてて行くのが、本来の姿だったのではないだろうか。
現状では、限られた本部員の合議で、物事が運ばれているだけで、神不在である。議会を開き、「談じ合った」ものを、神に伺い、物事を進めていくべきである。しかし、本物の「やしろ」が、この先、現れるのだろうか。今の教団内では、神も降りてこれないのではないか。
3は、教庁機構に関してになるが、議院内閣制で、名称はともかく、上と下の議会を設置し、女性の議員も、少なくとも、3割~4割をいれ、幅広く、意見を求められるようにする。男松女松の隔てなくの実現でもある。
任命は、真柱が行うのが、妥当かと思う。現在では、意見があっても、吸い上げられず、本部の都合で、却下されるばかりである。
4は、交通も発達し、諸事情で、所属教会と遠方に住むケースも、増えてきている。現在の教会制度が影響して、お道から離れてしまうケースもあると聞く。地方の教会では、熱心な信仰者が、家の近くの多系統の教会へ参拝しているという話も聞く。
縦割りをやめ、実質的な世襲制もやめ、地域ごとの「講」として集まり、講元を中心に、物事を進めていく。講元自身も、4年位の任期で交代する。その方が、地方において、信者同士のつながりや、コミュニティは、活発化するはずである。
5は、すべての元凶と言っていいほどの問題だが、人間である以上、金が元で、おかしくなることは避けられない。会計を明朗にする意味でも、会費制にし、収支は公開する。
お金に関しては、きれいにすれば、出す人は喜んで出すし、それが、社会にとっても役立ち、意義のあるものであれば、誰も出したお金に対し、「惜しみ」はつかない。
今の「お供えの制度」では「惜しみ」が、付きすぎたお金で、神が受け取れないものばかりになっているのではないか。無駄なところに、使われるだけである。また寄付に関しても同様である。
天理貴族というような生活を、子供の頃から、実際に見てきたが、教会制度の弊害だと感じる。教組も本席も、教会制度には反対だったというが、天理貴族を生むようなものだと、お見通しだったのかとも思う。
会計制度は、問題が起こりやすく、間違いの起こらないようにするべきで、教組に「なんぼためてもあかせんで」と、言われないようにする制度をしっかり、組むことが大事だと考える。お金に関して「すっかりくさってしもうた」と言われるような例が、あまりに、多いようにも感じる。(詳しくは述べないが。)
6は、現在の別席制度を見直し、教祖・本席時代に復元することが、望ましいと考えるからである。現行では、本当に道の路銀として、神から戴いたものであるとは、自覚できないばかりか、形式だけの通過儀礼になっている。
陽気世界の実現のためのようふぼくを、作るのが目的で、特定の国会議員とつながり、票集めのための者に、別席など論外である。今の自民党と統一教会が、ズブズブで叩かれる二の舞にならぬよう、心するべきだ。
7は、説明の必要もないほど、当たり前のことであるが、真実を追求するためには、研究が必要であり、その資料は、研究する者に、公開していかなければ、伸展は望めないと考えるからである。
8は、「いちれつ会」とも関係する事項だが、天理教では、扶育制度があり、教会・信者子弟は扶育を受けられるが、昨今、いちれつ会も、経済状況が苦しいようで、教会子弟でも、後継者くらいしか、扶育を受けられなくなっていると聞く。
一般の奨学金制度とは違い、本部勤務を数年することで、返済がないことから、本部勤務した者が、数年後にはやめていく。健全な人材育成が、できているとは思えない。現在は「ひのきしん者」として、正規には雇用されず、「勤務者」になるには、3年かかるようだ。
以上、ウケねらいで、書いたわけではない。天啓者が現れ、絶対的な神の力で「神の社」として据えられ、道筋さえできれば、一夜の間にも変わっていくものだとも思う。
しかし、それは、絶対に受け入れられないものであることは、以前の記事「異説や異端の毒やほこりを不幸にしてのみこんでしまった者の戯言」でも書いた通りだ。天理教に分派が、多いのは、本家が、本家であるようなふりをして、神の望まない方向へ、流れていったからだとも感じている。
「八策」について、ご意見をいただければ、幸いです。何、寝言を言ってるのか、というご批判も、大歓迎です。下のコメント欄に、匿名で身分を明かさず、率直なご感想や、ご意見を聞かせていただければ、ありがたく存じます。
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