見出し画像

幸せですか…?不幸せですか?

 能登の惨状をニュースで見ながら、本当に能登半島で大変な思いをしている方々に対して、かける言葉が見つからない。軽々しく「頑張ってください」とは言えないし、実際に能登へ行って、現地で苦労している人に会ったら、どう言葉をかければいいのかも想像がつかない。

 正月から大きな地震で家屋を失った人や、ライフラインがなかなか復旧せず、やっとの思いで仮設住宅に入れたら、大雨で床上浸水など、ニュースで「心が折れました」という言葉に何と言葉をかければいいのかさえ、わからなくなってしまう。ボランティア活動で行こうと考えてはいるが、何ができるのだろうかとか、多くは語らず、黙々とできること、手伝えることをすればいいかとも思うのだが、こればかりはその場にいないと何とも言えない。

 どうして神はこんな試練を能登の人たちに与えたのだろうとか、いろいろ考えてしまう。天理教では「いんねん」話をよくするが、能登の人たちは心が折れるほど、厳しい試練を与えられるほど、悪いんねんなのか?そんなことは絶対ないし、いんねん話というのは個々人のものであり、その地方全体に降りかかった災害などは、「いんねん」でもなく、「天罰」でもないように思う。それは神戸や東北の震災でも同じであると考えている。

 今日も長年おたすけに通っているお宅へ伺ったが、本当にどうすることもできないと感じた。「もう死にたい」とか何度も言うが、死にたくないのに災害で死んでしまうことだってあるのに、自分のことばかり言って、何を言っているのかと思うこともある。10年以上も通い続け、事細かに話も聞いて事情も分かっているから、「天の理」の通りになっているだけなのかとも感じている。詳しいことは個人のプライバシーのこともあり、書けないが、自分のことにしか目がいっていない。不幸のどん底にいるというように嘆くが、確かに不幸だとは思うが、そうなるに至った経緯も、それまでの心遣いも見てきているだけに、もういい加減に目を覚ましてもいいのではないかとも思う。それができないから苦しみ続けるのであり、救われないのかとも思う。自分に話を聞いてもらうだけの「徳がない」のかもしれない。

 何十年も前に「ない命」を助けてもらい、その後、すっかりよくなり、助けてもらったことなどすっかり忘れ、心のままに自由に遊び、暮らしてきたのだから、今、歎いたところでどうにもならない。いくら話したところで聞く耳も持っていないのだとも感じる。

 生まれた時からの天理教ですべてが信仰の上に成り立っているという感じで、今まで来たが、疑問を持ち、詳しく天理教の真の道を求めようと研究もしてきたが、天理教教会本部というか、教団と、本当の信仰とは別物のようにも感じている。正直な気持ちを吐露すれば、〇×大教会、△◇分教会、〇〇布教所所属というような縦型の教団組織など、信仰とは何の関係もなく、ただのサークル活動に所属しているというような感覚だとも思っている。

 「もう死にたい」とか「殺してくれ」とか、よく言うが、それを司っているのは神であり、言った本人の自由ではないように思う。何をどうほざいたところで、人間は確実に、間違いなく、いつか死ぬのである。その時がいつなのかはわからないが、免れようがないのである。前回、ガンのことを書いたが、余命がいくらあるかと、ある程度、予測できる分、残った人生を悔いなきものしようと努力することだってできる。自分が歳を取り、どんなに頑張って生きたところで20年前後だろうし、2050年にこの世に自分がいるとも思えない。やはりいい人生だったと言って死にたい。現時点で既にあと3か月の余命だと言われても、大きく悔いが残るような生き方はしてこなかったし、それだけあるなら、ゆっくり遺言書きに費やせると、むしろありがたいとさえ思える。

 やはり寿命の長さが問題なのではなく、どう幸せに生きるか、どう幸せに生きてきたかに尽きるのかとも思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?