宗教団体の世襲制が問題なのだろうか…?
世襲が当たり前?
宗教二世問題など、表に出るようになってから久しい。世襲制というのは特定の血統に属する者だけが特定の地位につくことができる制度などをいうが、政治家だけでなく、宗教団体においても、よくある話のように思っている。
天理教は世襲ではないと言っているが、実際は多くの本部員、大教会長、分教会長、布教所長に至るまで世襲で継いでいるところが多いように思う。選挙制や指名制で承認を得て、継承した、或いは関係者皆で談じ合ってというのは全体から見れば、まれなのかとも思う。従って〇〇教会といえば、会長さんの苗字がわかるようなケースが多い。或いは〇〇家の者が継ぐというのが当たりまえの風潮があるようにも思う。
世襲制のメリット・デメリットはGoogleで「世襲 メリット デメリット」などのキーワードで調べてみれば、いくらでも出てくるが、一概に悪いとも言えないし、やはり諸問題の原因はそこにあるということも言えるようだ。
話を天理教の世襲について戻すことにするが、今まで後継問題や世襲について、いろいろな事例を見てきた自分としては、やはりマイナスなイメージしかない。どこの大教会・分教会でも「後継の問題」は必ずあるわけだし、後継者として生まれてきた人にとっては、生まれた時から「後継者」だと言われ、本人の意志とは関係なく、まわりの者から、後継するまで「後継者」だと言われ続けるわけである。言っている方は言われている人の心の中まで考えず、気楽なものだが、当の本人にとってはたまらないものだとも思う。私自身もそうであったから…。
世襲で道はもとめられるのか
父は後継してほしいとも、継いでくれとも言わなかった。あくまで本人の意志に任せるという感じだった。私は、むしろはっきりと言ってくれた方が楽だったようにも思った。やらなければならないのなら、自分の意志で決め、自ら道を求めていかないと、本当の「道」は見えてこないようにも思う。「どうせ、俺は後継者だから…」ということを友人たちから何度も聞いてきたが、嫌々やっていたり、しかたがないとあきらめ心で、やっていたりしていたのでは意味がないようにも思う。
「世襲」は何より「おさまりがいい」のかもしれない。誰も異を唱えないだろうし、まわりからも期待されているのかもしれない。しかし、こと宗教に関して、天啓宗教だった天理教はそれでいいのだろうかという思いがある。
教祖中山みきに神懸かりがあり、神の言葉を伝えたことが始まりである。しかし、その子には神懸かりもないわけで、神に選ばれたわけでもない。末娘の小寒にはあったようだが、結局、後継はできなかった。天啓は飯降伊蔵本席に引き継がれ、その後継は上田ナライトになったわけだが、結局、人間が運営する教団としては「天啓」は邪魔なもので、思い通りにいかないものであるから、真柱がトップで、後継は中山家のみということを決めてしまったのかと、天理教の歴史的なことを調べているうちにわかってきたように思っている。
神は長男でも継がせなかった
天理教では教祖みきは明治20年に「定命を25年縮めて現身を隠された」と言われている。予定ではその25年後、すなわち明治45年、すなわち大正元年まで生きていたはずとなる。教祖みきの晩年のことを調べていると、長男秀司と妻まつえのことがどうしても絡んでくる。(以前、過去記事で「まつえ」さんのことは「私の中山松枝考」でまとめたから割愛するが)
「おふでさき」を書き始められた明治2年の頃に秀司は49歳で、まつえは19歳で結婚した。親子ほどの歳の差だが、この段階では教祖は息子夫婦に後を任せようという思いはあったのかと思われる。また周りの信者も寄りくる人たちも教祖の長男である秀司に期待もし、ないがしろにはできなかったのかとも思われる。
しかし、現実は明治13年に金剛山地福寺に願い出て、配下となり転輪王講社を開いた。迫害や親の身を案じてというのもわかるが、どうも、この辺の事情は更に研究する余地があるように感じる。
その頃、本席飯降伊蔵に「扇の伺い」を授けているが、神の言葉を伝える役割を与えていたのかとも感じる。秀司は教祖の思いとは違う方向へ流れていき、結局、明治14年、教祖84歳、神の計らいによって秀司は61歳の時に出直している。その翌年にはまつえも出直す。そこから梶本家から初代真柱となる真之亮を迎え入れるわけだが、やはり神の言葉を伝える役割というのは「世襲」ではないようだ。
年祭ごとに衰退ではなく、延びていくために
前の記事で書いた「信仰というよりサークル活動、同好会」のようなものだと書いたのは、教祖様と本席の残したものだけを元に、神に伺いも立てず、世襲でやらなきゃならないと継いだ者が運営しているからである。もちろん全部ではない。
世襲で上の立場や要職に就いて、新しい発展もなければ、旧態依然としたことばかり繰り返しているのだから、10年の年祭ごとに、また繰り返すのかと、勇めないばかりか、衰退していくしか、しかたがないのかもしれない。
むしろサークル活動や同好会のようなものだと割り切って、どんどん発展していくほうがいいのではないかとさえ思う。しかし、世襲ではそれは無理であると筆者は考えている。現実にはお道を離れていった友人を何人も見ているし、残ってはいるけど、自ら道を求めてというよりは継がなきゃならないからというケースが多いようにも感じている。
神に伺いを立てて
大正期や昭和初期の天理教の歴史を調べていると、かなり混乱していたこともわかる。やはり教団として教規もしっかりと定め、運営もしていかなければならないということもわかる。しかし、人間が神に伺いを立てて、さしずを仰ぐという形が途絶えてしまってから、単なる新興宗教団体の一つになってしまったのではないかとも感じる。本席時代には身上・事情から異端のことまで、事細かにお伺いを立てていたようである。膨大な「おさしず」の中には個人の身上。事情などの伺いもけっこうある。
さいごに
今日は本部の大祭で参拝してきた。大祭月でもあり、けっこうな人出だったように感じた。春の大祭は寒い中で、じっとしているとイメージがあったが、比較的おだやかな天気だったようにも感じた。多くの信者さんが帰参されていたようで何よりである。
まだまだわからないことだらけで、道半ばだと感じるこの頃であるが、残った人生の間にもう少しだけ真実を求められればとも思う。