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思い出す教会でのできごと
筆者の教会が遠方にあり、教会へは年に一度しか参拝に行けない。コロナになってからは一度も行ってない。ずっと以前の話になってしまうが、コロナが始まる前、所属教会に参拝した時のことである。
月次祭の祭典も終わり、信者さんも皆、帰られた。筆者は遠方から来て、帰りは翌日なので、その日は教会に泊まったのであるが、夕方、会長さんが外へ食べに行こうと言ってくれた。昼の直会で残ったサラダや揚げ物などもあり、晩はそれを食べるものだと思っていたので、「え?」と思った。
会長さん夫婦は筆者とは従兄弟なので、気を使う必要もないと思っているだけに意外だった。遠方から来る私を労ってくれたのか、私が頻繁に来るわけではないので、気を使ってくれたのか、或いは昼と同じものを出しては悪いと思ったのか定かではないが、内心、昼の直会の残り物はどうするのだろうとも思った。
結局、固辞したのだが、せっかく来たのだから、外へ食べに行きましょうと、車に乗って出かけた。釈然としないものを感じながらも、会長夫妻と家内と4人で出かけたのだが、この場合、自分はどうすべきだったのかと思う。
厚意を無にしてはいけないと思うべきなのか、天理教人として「菜の葉一枚」も無駄にしたくないと外食を断り、残り物を食べるというべきだったのか、読者の皆様なら、どう考えるだろうか…。お聞きしてみたいものだ…。
普段、教会には親奥さん(筆者の伯母さん)と会長夫婦だけである。子供たちは皆、成人して教会を出て行っている。教会というところは、前日や祭典日の朝にご婦人方で準備した食べ物が、どうしても多めに作るから残ってしまうのは仕方がないことなのかとも思う。
信仰とは何なのか?教えを実践してこそ、信仰しているとも言えるのであろうが、人間の都合で、「まあ、これくらいはいいか…」と自分自身を甘やかしたりしていることも多いのではないかとも自戒する。教会が貧しく大変だった頃からの様子も知っている。それだけに普請して敷地も駐車場も広くなった現在の立派な教会を見て、古くからの信者さんも喜んでいる。しかし、高齢になり古い信者さんも一人亡くなり、二人亡くなりとなっている現在、今の姿が当たり前だと、感じている若い人もいるような気がしてならない。
教会では祭典が終わり、食べ物でも何でも残ることがあり、処分に困ることもあるだろう。中には信者さんの中で事情も分かり、持って帰っていただきますからと先回りして気遣う信者さんもいる。しかし、それも高齢の方であろうし、そこまで配慮できるほど教えを実践している人は減ってきているようにも思う。
けっこうになりすぎたと言えるのかもしれない。片付けを手伝ったり、諸々、ひのきしんもさせてもらっていて、ゴミ出しをした時に残飯や生ゴミの多いことにも胸が痛んだ。世界には飢餓で亡くなっている人も少なからずいる。
以前の記事「人間の数に就て」でも述べたように現在、地球上には約79憶の人がいる。そして、人口は増え続いている。ロシアと日本ぐらいしか減っている国はないと聞く。
コロナ禍は神が与えた試練なのかとも思うが、教会においても直会など、やって、食べ物を粗末にしているようではやらなくてもいい!とばかりに、このずっと続くコロナ禍を与えたのかもとも感じる。直会をやめ、弁当にして早々に帰ってもらう教会もあることだろう。長く続くコロナで、今一度、考え直したり、見直して変えていったこともあると思う。
やはりコロナは神が与えた試練なのかもしれないと感じるこの頃である。