私の人生、なかなかに幸せだ。
私はなんて幸せな人生を送っているのだろう。
20歳を超えてからそう思うようになった。
私はなんて幸せな人生を送っているのだろう。
ひょんなことから、とか、何か決定的な出来事があって、とかじゃなく、
20歳頃から何となくそういう結論に至ることが多くなった。
というのが、正しい表現かもしれない。
私は今、卒業まで残り僅かというところまで来た大学4年生だ。
生まれてからたかだか22年くらいしか経ってないけど、こんな人生早めに手放して来世に進んだ方が良いと思うことが今までに何百回とあった。
動悸を感じながら歩く帰り道。
深呼吸をしてから開ける玄関のドア。
椅子を振り回す父。
家を飛び出した母を呼び戻すまでに溜まった、数十件にわたる通話記録。
たまに顔を見せると「親の方が大変なんだから」と言って遠くへ帰る兄。
音信不通になった相談相手。
今でも私の瞼の裏には、あの時視界に飛び込んだ赤色の記憶が鮮明にこびりついている。
「お前なんか早く児童施設に入ってしまえ。」
「音がもう少しだけ我慢すれば良い。」
「なんかそういうの、ドラマみたいで面白いね。」
今でも私の耳からは、あの時鼓膜に刺さった鋭い矢が抜けていない。
自分しか信用できなかったし、自分以外の人間に何の期待もしなくなったあの頃。
その信用を損なわない為に、期待を裏切らない為に、死に物狂いで目の前の問題を潰していった。
ある日。
気づけば私は家中のあらゆるものを破壊していた。
これは当然比喩表現ではなく。
目に入ったもの全てを殴り、穴を開け、そこらへんに置いてあった紙の裏に、
「死にたい。」
それだけ書いて、部屋に籠った。
その後帰宅し、家の有り様を見た両親は心底驚いたのか、
数年ぶりに親らしい顔をして私の前に現れ、優しい言葉をかけた。
翌日も、翌々日も。
「ああ、やっとこんな毎日も終わるのか。」
また、私達は家族になれるんだ。
安心した。
そう思えたのは3日ほどだった。
部屋で友達と電話していたら、ドアの向こうから父の怒鳴り声が聞こえた。
「ああ、やっぱり。」
自分でも驚くほど、あっさりと私は現実を受け入れた。
私は私として生まれてきて良かった。
「こんな人生、私じゃなかったら生きれてないね~。」
全てを知ってる大学の同期の家で飲んでいる時に、冗談交じりで言ったことがある。
でも、こんなにも気持ち悪い人生、もし私が私として生まれてきていなかったら乗り切れていないと、どう考えても思うのだ。
私は私を裏切ったことがない。
高校・大学と2度経験した受験、そしてつい数か月前に終了した就職活動。
全て第一志望への切符を掴んできた。
家で自分を成長させることはできない。
だからせめて学びの場くらいは、自分を一番成長させてくれそうな場所を選ぼう。
ここに身を置いたら絶対に良いことがある。
そう思えた高校/大学を選び、そこだけを受けた。
合格した。
その先で過ごした時間の中では色々あったが、結果的には予想通り私を良い方向へと導いてくれた。
就職活動も、沢山の大人に話を聞いて、志望企業を選んだ。
流石に食べていけるか、が懸かっているので、ここで1社だけを受けるなんて大きな賭けはしなかったのだが、無事第一志望に内定を頂いて就職活動を終えた。
(もちろん、私だけの力ではどうしようもなく、多くの方に支えて頂いているというのは自覚しています。)
高校受験も大学受験も、何故かピンポイントでその時期に父親は仕事を辞めてくるし、就職活動時も色んなアレコレで心がざわついたことが幾度となくあった。
それでも、その時出来る全てをやり尽くして、私は自分の道を拓いてきた。
あまり自分のことは好きじゃないが、こういう時にちゃんとやるべきことをやってくるという所には、信頼を置いている。
私は運が良い。
20歳くらいからめちゃめちゃ運が良くなった。
特に、「人」に関係するところで。
同期や友達のことまで一人一人話すと長くなりそうなのでまたいつか大切に書くが、
20歳の時出会った大学の教授と、10年以上の仲になる幼馴染。
この2人がくれたある言葉が、私の人生を変えたと思っているので、ここではそのことについて書こうと思う。
「森井さんさ、なんかあったら僕に電話してきなよ。だって、僕のことどうでもいいでしょ。」
泣きじゃくる私に、教授はそう言った。
体調不良を理由にして頻繁にゼミを休む私を心配してくれた教授と面談をした時、
何故だか私は、「人に相談するのが怖い。」という相談をしていた。久しぶりに人に本音を言った瞬間だった。
相談したいと思う人は皆自分にとって大切な人だけど、今まで相談した人は大体自分から離れていったから、もう誰にも相談できない。
恐らくこのようなことを言ったと思う。
それを聞いた教授が、先ほど書いたようなことを言った。
正直聞いた時は「困惑」の2文字しか浮かばなかった。
今まで「いつでも話聞くよ、だって友達じゃん」という友達や、
「大人が入った方が解決できるんだから何でも話しなさい。」と言ってきた先生は何人もいた。
でも、「僕なんてどうでもいいだろうからさ。」と言って相談に乗ってくれる人はいなかった。
そして教授はその後、現在に至るまで本当に親身になって相談に乗ってくれる。
「森井さんは、もともと音楽とか芸術の人なんだね。」
私が作った動画や楽譜を見て、教授はこういった。
この言葉が私に、音楽や絵が好きだった時の記憶を思い出させてくれたのだった。
「こういうの、いつか仕事にしたいんです。」
初めて口にした相手は、教授だった。
そして、
恐る恐る表現の世界へと近づいていったはいいものの、やっぱり怖い。
そう思った時に背中を押してくれたのは、小・中・高と同じ道を歩んだ幼馴染だった。
今年の10月。
私は彼女に、
『10月か12月に何かを始めると良いことがある。』
と占いの本に書いてあったんだよね、
と話していた。
「始めるって言ってもなあ。何がいいかなあ。」
そう言った私に対して、彼女はかぶせるように、
「音楽。」
そう返した。
20歳近くになってから休みの日に会う友達の中で、私のピアノを聞いたことがあるのは彼女だけだ。
当時から今まで、私の演奏に対して何かを言ったことはなかったが、彼女はその一言でその後の私の行動を大きく変えた。
彼女の言葉が後押しとなって、私はピアノカバーの動画をYouTubeに投稿する踏ん切りがついた。
この2人に出会えたこと、そしてこの2人からその後の人生を変えるような言葉をもらえたこと、
それを思い返す度に、「やっぱり私は運が良いな。」
そう思う。
人付き合いに消極的な私が、noteの企画に参加する。
8月にnoteを始めた。
当初は、今まで日記に殴り書きしていたようなことを、気が向いた時にだけ書いて投稿していた。
11月29日。
ほぼ3か月ぶりにnoteを眺めていた私は、当時人の記事を見ることなんてなかったが、たまたまこの記事を読んだ。
ええ、面白い。
noteって、面白い記事書く人いるんだ。
それ程noteについて知らないまま利用していた私は、ほとんどの人が私と同じように、日記のような感覚でnoteを使っていると思い込んでいた。
だがこれを読んだ時、私にはこの記事が、人を楽しませるために書いているものと思えた。
その後一気にイトーダーキさんの記事を読み、どんどんとスキを押していったので、おそらく通知は気持ち悪いことになっていたと思う。申し訳ないです。
それでも、この記事をきっかけに、私は今までブラウザからログインしていたnoteのアプリをインストールし、さらにそれを頻繁に開くようになった。
書いていくうちに、ことばの面白さに気づいた。
ことばが持つ豊かさを、もっと表現に活かしたい。
そう思って、noteを使ってことばの訓練をすることにした。
ことばの表現に悩んだ時は、
このコメントに励まされた。
初めて悩んだ時に、こんな言葉をもらえた私は、やっぱり運が良い。
そして、
投稿する度にスキを残してくれるはやぶささんが初めてコメントを残してくれた時のことの嬉しさも、すごく覚えている。
初めて、少しぽやぽやした文章を書いてみようと思った時に頂いたので、すごく自信に繋がりました。ありがとうございます。
↓私がすごく好きな記事です。↓
そんなこんなで、
3か月アカウントの存在を忘れてたような人間が、今では毎日投稿しているのだから面白い。
そして、今回「勝手にリレーエッセイ2023冬」に参加する。
自分から繋がりを求めたのは何年ぶりだろうか。
「私、なんか変わったなあ。」
参加者の紹介記事の中に自分が入っているのを見て、そう思った。
この企画で、さらに輪が広がっていくのかもしれないと思うと、ワクワクが止まらない。
辛いと思っていた日々が、まるで今に繋がる伏線かのように思える。
ここまで読んで、「いや、大袈裟だなあ」と思う方も中にはいるかもしれないが、
私には毎日辛いと嘆いていたような過去がある。
それでも、
「今この瞬間、幸せだ」
と思う度に、あの日々はこの幸福感をしっかりと味わわせるためのものだったんじゃないかと思う。
今でもしんどくなることはあるし、時々昔みたいに「死にたい」とか軽率に思ってしまうことはあるけど、今この瞬間を見つめ直してみると、
「なんだ、私って結構幸せじゃーん」
となる。
2022年。色々あったけど悪くない一年だった。
2023年。何があるか分からないけど乗り越えてみせようと思う。
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