そんな生き方可哀想だから変えてあげる、と言われた。


私は食事を楽しむ心が死んで味覚が機能しないので、あまり食べ物の味がしません。

食べ物よりも飲み物の方が好きで、いろんな種類のお茶を取り揃えておくと安心します。



私は家族という概念を肯定できないので、家族らしい肩書きを持った個々人に特別な思いを抱く勇気がありません。

血の繋がりが無い他人と同じようにそれぞれを見て、どういう人か日々分析し、相手に合わせて面倒でない関係性が築ければ良いと思います。

一緒に過ごした年月が長い分、それなりの関係性や思い出があったりしますが、それはあくまで年月が生んだもので、血の繋がりによる特別感などは信じていません。



私は二度死のうとしたことがある人間ですし、一旦死んだものとして気持ちを切り替えてまた生き始めた人間なので、生きることにさほど執着がないです。

どうせ生きているなら理想の自分でいたいという気持ちがあるので、生きているうちは人生を充実させる努力をしようという意欲はあります。




自分の中では上記のことが「当たり前の認識」のようになりつつありますが、とはいえこれらのことを誰かに対して見せる・聞かせるのは避けています。

一般的に美味しいとされるものを見たら「美味しそう」「食べたい」と言葉にするし、

「生まれてこの方家族仲は良好」という人物像で社会を生きているし、

さほど感情が揺れ動かないのを良いことに、都度その場合わせの感情を切り貼りしたような人間になってしまいます。

ですがこう生きていくことがむしろ、
周囲とズレを感じる自分のアイデンティティを傷つけずに守ってくれたりもするのです。




先日、この人の人柄なら特段気を張らずにいても傷つかないかもしれないと思う会話相手がいたので、深く考えずに会話していたら、

そんな生き方は悪だから自分が変えてあげる(要約)、と言われました。


本当はそんな生き方嫌なんでしょ?
生きてたい、とかそう思える人生にしてあげたい。

と。


やはり私のことは私だけが受け入れていれば良いやと思いました。




生きていく中で、能動的・漸進的に、ズレを感じない自分へと変わっていくことはあるかもしれないと思っているし、そのことに拒否感は無いのですが、

それを他人に委ねる気はさらさら無いし、
不自然にそれが変わるのを私は求めていないのです。



そもそも今の私の生き方は間違っているのでしょうか。



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