23年を振り返って

誕生日を迎えた。23歳になった。ここ半年くらい「今何歳だっけ、もうすぐ誕生日だから実質23歳か」と思い続けていて、すでに23歳になっている気分だったので、今誕生日を迎えてみて「いま何歳だっけ、確か23歳だった気がするから一つ足して24歳か ほんとに?」とか考えていて、改めて今やっと23歳になったと思うとちょっとなんか得したような気分になる。思ったより年を取っていない。

誕生日はケーキを食うと相場が決まっている。母は毎年クリスマスになると「ケーキを買わなきゃ」と焦って、どこで買おう、何を買おう、チョコがいいか、クリームがいいか、父の意向は、子供は何がいいか、と悩んで悩み疲れていたけど、僕はけっこうその辺適当なので、気に入ったものを食おうと思った。帰り際にスーパーでモンブランを買い、一人で食って、まあ甘いなと思った。二個あったので一つだけ食べて残りを冷蔵庫にしまった。そういえば幼いころもホールケーキを食べきれなくて冷蔵庫で冷やして置き、翌朝の朝ごはんで食べるというのを何度かやった気がする。誕生日というのは一日で終わるもので、プレゼントをもらい、その日だけはたいてい何があっても許されて、ケーキを囲んでろうそくを吹き消して、もらったプレゼントを眺めて眠る。翌朝になれば普通に普通の一日が始まってしまうのはいつも寂しかった。昨日あれだけ嬉しかったのは何だったのか、と落差でちょっとへこむんだけど、そこにケーキがあると昨日と今日が繋がっているようで、幸せだった昨日が隔離された夢ではなく確かにあった思い出として自分の一部になっているという感覚がする。ただの食べ残し以上の価値があったのだ。今冷蔵庫に眠るモンブランにはそれだけの価値があるかどうか。

つらいことは忘れて楽しかったことばかり覚えているのは僕が特別楽天的だからというわけではなく人間そうできているものだと思う。つらかったことは忘れて、ただそれを避ける術だけが身についている。そうでなければ心が壊れてしまう。これからこうして、実家で暮らしていたころの記憶が断片的に思い返されては美化されていくんだろうけど、それはそこが好き勝手理想郷を描くことのできるキャンパスになっているからで、実際は白く塗りつぶされた下には見るも恐ろしいものがいくらでもあったのだ。ただ記憶の中で塗りつぶされている。確かにお金のことを何も考えなくてよくて、働かなくても良くて、友達がいて、朝から晩までゲームのことを考えて生きていられたのは幸福だったろうけど、これから家に帰ってももうそんなものはどこにもない。今家はどうなっているだろうか。簡潔に言うと、今後気が変わって家に戻ろうとか父や母や妹に会おうという気を起こさないように、今のうちに決心しておきたい。僕は22歳の4月の自分に誓ったのだ。どれだけ今後気が変わっても、あの日の僕が、今日の僕が、家には帰るべきでないと決めたのだ。過去が未来を支配するのはいつも倒錯的で、短期的な利益にはなっても長期的にはよくない結果を招く。けれど今回限りは、このまま一人で生きていく。再び父の支配を受けるのも嫌だし、母の介護をするのも嫌であるし、妹に頼られるのも嫌である。僕は僕と僕の愛する人のためだけに生きる。ただ血が繋がっていて生後二十年を暮らしたというだけの彼ら、性格も口調も考え方も何一つ尊敬できない彼らと暮らす理由はどこにもないのだ。確かに長い時間を過ごしたから親しみはあるが、それ以上に関わることへの害が多すぎる。

人は時間が経てば変わるものだ。変わるべきだと思う。がこれだけは別である。この身一つで生きていく。まあ生きていけるだろう。

眠くなった。鏡で顔を見るとめちゃくちゃ疲れていて、だるだるとしていて、これはやばいなと思う。肉がついたせいか、疲れているのか、人と遊べていないせいか、まあいろいろありそうだ。健康な暮らしをしたい。人生の目的は何か? 目的はないなあと思ってたけど、健康に暮らすこと、と言ってみるとそこそこ正解に近い気がする。70点くらいはある。今はあんまり健康ではない。手始めにたくさん寝ます。おやすみ。今日から一年間は23歳だ。

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