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秘密の池

 ずいぶん幼い頃、祖母の家に泊まったときのこと。早い時間に目が覚めて、ずっしりした布団の中でじっとしていると、どこからか水の匂いがした。外に池があるのかもしれない。はっきりした匂いで、低くうなるような声で鳴いている蛙の声も聞こえた。早く起きて、外に出て確かめてみないと! どんな池があって、どんな生き物がいるのか。水の様子と匂いを知りたい……考えながら布団の中でまどろみ、はっきり目が覚めたときには忘れてしまっていた。祖母の家から出て、帰りの電車に乗って、自宅へ帰ったときにも忘れている。そして、ずいぶん長い間経ってから「そういえば、あの時の池は」と思い至る。

 祖母の家の近く、どこかに池がある、という気持ちはぼんやりと、でも長くわたしの心に留まって、澱んだ水の底から浮き上がるあぶくのように、ときどき浮き上がってぱちんと弾ける。祖母が亡くなってから、わたしは祖母の家には行かなくなった。池も確かめられないままだった。でも、祖母の家にいた人や、わたしの家族は「池などなかった」と口にする。近くでもない、遠くにも池はなかった。川もない。田んぼの水の匂いを、池と勘違いしただけでは?

 言われてみればそんな気もする。街で生活していたので、田んぼの匂いも、雨に濡れた土の匂いも、用水路に流れる水の勢いも、刈り取ったばかりの草も、ずらっと並んで進む蟻のこともよく知らない。でも、池は、きっとあるはず……。そう感じていた。

 大人になってから、あちこち移動を伴う職業に就いた。職場に到着し、然るべき仕事を確認してから、自転車に乗って出かける。人の家に訪問し、また訪問し、終わると別の家に行く。ある日、自転車で出かけているとき、懐かしい匂いがした。くっきりとした輪郭を伴う水の匂いだ。匂いを探して、ゆっくりと住宅地の坂を上った。坂を上り切ったところ、草が茂っているところで自転車を止め、水の匂いをたどっていくと、小さな池がみつかった。田んぼに流すための水を溜めておく貯水池だ。池の周りには草が茂り、入れないように水の周りには金属の網が張り巡らされている。「水に注意!」と書かれた看板には、池から出られずに困った顔をしている少年の絵が描かれている。池の黒い表面はぴたりと静止していて、周囲の景色をくっきり映しだしている。

 別の日にも懐かしい匂いをかいだ。匂いに誘われて歩いて行くと、やはり池が見えた。公園の中の池で、シーソーやブランコなどの遊具の隣に、ぐるりとフェンスで囲まれた池があり、水の表面を覆うように蓮の葉が生えている。わたしは小さな石を手にとって、池に投げてみるけれど、波紋は見えない。とぽんと小さな音を立てて、石が水の中に吸いこまれるように落ちる。今まで自分の手の中にあった石が、もう戻ってこられない暗闇の底に在ることに思いを巡らし、恐怖の中に少しだけ罪の意識が混ざる。

 植物園の温室、学校のプール、ペットショップの水槽、美しい庭の手水鉢、神社の手水舎、薄暗い水族館、グレーチングの隙間から見える黒い水、古い家の井戸、流れの速い川、市役所の休憩所にある浅い池、藻が生えている用水路、赤い金魚が浮かぶお祭りの屋台……
 水の匂いはあちこちにあって、そのたびにわたしは「懐かしい」と思い、懐かしさの中に「確かめたかった池」を求める気持ちをはっきりと感じながら、水のある場所に近づいてみる。でも、どこへ行っても、あの時の池に似ているようには思えない。

 祖母の家の近くには池などなく、わたしが感じた水の匂いも夢だったのかもしれない。蛙の声も錯覚だ。誰に聞いても「知らない」と言われて、大人のわたし自身も「夢だった」と考えている池は、たぶん、どこにもなかったのだろう。そう思っていた。

 祖母の家で眠っていた日から何十年も経った日、わたしは亡くなった父親が遺した写真を整理していた。昔の写真は今の写真よりずっと小さく、数センチ角の大きさしかない。セピア色に褪せた写真には、見知らぬ人や、景色がたくさん映っている。わたしは一枚ずつつまみ、目の高さに上げてじっと見た。知っている人はいない、見た景色もない。知らない人と知らない景色がたくさんあり、小さな写真は「遠い昔、確かにあった」人や景色の証ではあるものの、ささやかで頼りない。
 その中のモノクロの写真の一枚に、池が映っていた。ぐるりとススキが囲うように生えていて、ススキの穂は風で左側に傾いている。右上から白い光がさし、池の表面にうろこのような光の模様を作っている。濃い灰色の池の表面に、真っ白な光の形が浮き出て、きらきら光る水面がくっきり見える。その水面を見た時、はっきりと「これが、わたしが確かめたかった池だな」とわかった。どこの場所の、どこの池なのかわからない。でも、なぜだか確信があった。わたしがかつて確かめたかった池は、この写真の池だった……。

 遠い記憶の中にあった感覚が、古い写真によって呼び覚まされて、腑に落ちることもある。昔の感覚が、昔の写真で喚起されて、不思議にぴったりと一致した。結局、祖母の家は取り壊されたので、池のことはわからないままだった。父の遺した写真に映っていた池のこともわからなかった。

 誰も知らない、わたしの記憶の中にだけある秘密の池は、知らない写真の池に、その場所を落ちつけた。そして、たぶんわたしの知らないどこかの場所、どこかの世界にも、わたしの秘密の池はあるのだろうと考える。