いじめの問題と、“人”と“人間”の違い

旭川のいじめの事件は、本当に聞くに堪えない内容です。直接の加害者も、周囲にいた傍観者も、学校側も、社会も、悲惨なニュースとして消費してしまうメディアも、そして僕も、いろいろと考え直さなければいけないんだと思います。

痛ましい事件で、亡くなった子どものことを思うと苦しいから、それを和らげるために何かをしようとするだけでは、一問題に個人的に取り組むだけになってしまう可能性が高いです。それが意味のないことだとは思いませんが、もっと構造的なところにアプローチできるような視野も持つ必要があると考えます。

具体的には、全体主義と個人主義を相対的に捉えながら、いじめの構造を考えていきたいです。この視点を持つきっかけとなったYouTubeがありますので紹介します。

https://youtu.be/yrlxLHNkN7s

(いじめは全体主義の最小単位である)

いじめは、意地の悪い人がいることで始まるものであると個人の能力や人格に原因を見出すの(自己責任論)ではなく、集団の結束を高めるために異分子を作り出し、共通の敵として排除・成敗しようとする構造的問題として捉えてみるのである。

すると、個人を罰したり取り除いても、いじめの対象が変わりながら永遠になくならことが説明出来るようになる。個人に責任を負わせるのは、個人を尊重するからこそだが、それでは根本的なところまでたどり着けないのではないか。ありがちなのは、加害者や被害者の家庭環境に原因を見出そうとするやり方である。これは、いじめを個人的な一問題として処理しようとしていて、きっと誰も救われないだろう。

また、性に関しては、対等性と対称性という2つの視点で考えています。今回のいじめでは、性的な写真を人質に取られ、上下関係、支配関係が強固なモノになっていきました。性は、人と人を結び付けるエネルギーになるものですが、すごく私的でデリケートな所でもあるので、公であり私です。この両義性をバランスよく保ち続けることが難しいのです。

僕たち人間は、すべての人に平等に人権があるべきで、そういう意味において対等性があります。どのような性の人であっても、すべての人が対等であることがこの世界の前提としてなければなりません。

一方で、性の代表的な分類である男性、女性には対称性がありません。男性の性の方が快の要素が多く、女性の性の方が痛みや苦しみの要素が多い傾向にあります。また、女性の性は男性の快と表裏一体なので、男性社会においては、女性の性の方が金銭的価値を持ち、同時に搾取の対象にもなります。非対称性は、男女間だけではなく、老若にもあるし、先進国途上国の間にもあるし、都市部と田舎にもあります。つまるところ、どのような間柄にも、非対称な性が存在するわけです。対等だけど対象でない2人なのです。

弱い方の性、搾取される方の性、利用される方の性、傷つけられる方の性、そういった性の側にならないために、傷つける側に回ろうとするのは弱肉強食の動物的な考えですが、それでは構造的解決になりません。人間社会における多様性、複数性といったものを尊重しながら他者と関わっていける理性や知性が必要です。

そういったものが身に付く生き方を日々していかなければならないと思います。それがめぐりめぐって、若い世代や子供たち、これから生まれてくる人の世界を、少しでも良いものにするのではないでしょうか。

理想論で終わらせるのではなく、性のあり方を考え続けたいです。

それから、最近気になっているのは、“人間”と“人”の言葉の違いです。人の間と書いて人間です。人が指すのが個人という一個の存在だとしたら、人間が指すのは人の集まりの集合体で、そこにいる人と人には間(隔たり、間隔)があり、その境界は肉体によって作られます。また、独立した存在であるが故に一体化することは不可能だし、わかりあうことも難しいです。それが人間の本質です。

人の本質が、弱者や異分子を見つけ排除しようとするわけではなく、人間の本質がそうなのだと考えられることができるのではないでしょうか。

人が集まった集合体としての人間は、大小様々な社会を作っていくのですが、そこに多様性や複数性を認め、受け止め、耐えうるだけの理性や知性、そして自立がなければならないと思うに至りました。(自他の区別と自他の尊重の両立)

重複して同じことを書いていますが、僕が今考えている事はこういったことです。


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