Twitterと煙草をやめて一ヶ月が経った
正確には完全にやめたわけでは無いのだが、Twitterはアプリをアンインストールをしたし、煙草は今年に入ってから一箱しか吸っていない。どちらとも頻度がかなり減った。
それらをデトックスすることで良い作用が起こることを願っていた。結果的には自分が想像していたような感覚にはなっていない。目先の動揺やストレス、自意識は多少マシになったように思うが、それ以外の側面で追い込まれてしまっている現実がある。
Twitterをやってようがなかろうが、煙草を吸ってようがいまいが、朝は起きれないし、仕事は出来ないし、他人の人生を羨んでしまう。
俺とTwitter
中学生の時にTwitterを始めて、高校大学はTwitterをやり過ぎていて、社会人になってからは三年くらい続けていた。特に社会人二年目までは「考えるOL」とか「鈴木」とか、多数の共感を集めているアカウントが羨ましくてそれっぽいツイートを頻繁にしていた。
同じ時期にnoteを始めた。就活のことについて書いたnoteがそれなりに読まれ、それについてのツイートもほんのちょっとだけバズった。日々微増するTwitterのインプレッションを見ながら(人生が変わるカモ…!?)と期待したが、何の成果も得られず四年が経とうとしている。
SNS経由で名が売れたアカウントやライターをここ数年で何人も目にした。その度に羨ましいな~と僻み妬み恨みを溜めている。ただ彼らほど本腰を入れてSNSに注力していた訳ではない。何もしなかったら何も起きないのは当然だよな…と我に返る。かと言ってTwitterで有名になることをハナから諦めていた訳でもない。なんというか、一番中途半端な状態を二年くらい続けていた。もうそろそろ自分のこれからについて本気で決断しないと人生が終わってしまう年齢に差し掛かった間際、Twitterの方が先に終わってしまった。
TLに「おすすめ欄」がデフォルトで出てくるようになった時期から怪しかったが、未だTwitterの形は留めていた。その数ヶ月後に名前がXに代わってからは本当に終わってしまった。奇っ怪なトレンド、インプレッション稼ぎのアラビア語、横行するセンシティブな投稿。たまーにブラウザ経由でTwitterを見てみるがカオスな状況は相変わらず続いている。
Twitterをアンインストールして、代替SNSとして台頭しつつあったスレッズを始めてみた。最初はインスタでフォローしている人や古のインターネットオタクが緩やかにテキストを投稿していて居心地が良かった。ただ暫くするとTwitterで散見された軽薄な投稿やInstagramに誘導するような投稿が頻繁に表示されるようになったのでアンインストールした。
ていうかさ、もうパターン化された"ツイート"気持ち悪すぎるんだよな。マックの隣の女子高生、ピチピチのニットで胸を撮る、昔のテレビの切り抜き、「これはヤバい」から始まって「でも一番ヤバいのは…」とリプ欄に中途半端なメソッドを提示するSNS有識者の投稿、不自然な日本語、🤔🤔🤔、アラビア語、もう全部飽きた 面白くない
俺と煙草
高校生ワイ「死んでもタバコは吸いたくない」
26歳ワイ「これ吸ったら禁煙する(n回目)」
人間というものは不思議なもので、こんなに忌み嫌っていた煙草を二十歳になったからという理由だけで吸ってみたくなる生き物なのである。津田沼のファミマで適当に選んだ番号を買い、駅前の喫煙所でむせながら吸った。あれが自分の初喫煙。そこからバイト先の喫煙先輩ズと仲良くなり、バイト終わりの喫煙所や喫煙可能な居酒屋に同行していたらあれよあれよと喫煙者になっていた。
煙草について印象的な出来事がある。未成年だった時期に日雇いのバイトを何回かしたことがあった。その日は倉庫で商品を仕分ける簡単な作業だったのだが、同じ場所で作業をしていたお兄さんと仲良くなった。話をする中で帰る方面が同じことが判明したので、現場まで車で来ていた彼の厚意に甘えて乗換の駅まで送ってもらった。
帰りの車中。運転席に座る彼が「煙草吸っても平気?」と胸ポケットをまさぐっていた。その時の自分はまだ”死んでもタバコは~”時期だったため正直な話マジで嫌だったが、乗せてもらっている手前から断るのも憚られた。倉庫から駅までの三十分程の道中で、お兄さんはずっと煙草を吸っていた。彼に「なんで煙草吸ってるんですか?」と素朴に聞いてみた。お兄さんは「なんで? なんでかぁ……」と暫く頭を悩ませた後で、「コーヒーを美味く飲むためかな」と歯切れ悪く答えた。自分でもその理由を逡巡しているようだった。その時のお兄さんの表情やアナログな内装の車、満杯に詰められた吸い殻入れが印象的で、鮮明な映像として海馬に刻み込まれている。あれは確か三月だった。
話は変わって、同年代の喫煙者が続々と禁煙に成功している。中高の友人共、一緒に小説を書いた相方、昔の知り合い、会社の後輩。周りの影響を簡単に受けてしまう自分は例に洩れずそれだけで禁煙を始めた。禁煙日としては五日しか経っていないが、ここ一か月での本数はそれまでと比べて明らかに減ってはいる。
驚くべきことに彼らが禁煙した理由の殆どが「恋人のため」だった。その誠実な決意を全肯定させてほしい。「猿楽町で会いましょう」で長友郁真が小山田(金子大地)に「女の影響で禁煙する奴は信用するな」って言ってたけど、他人のために自分を曲げることが出来る人こそ信用するに足る人物なのだと、最近になって思うようになりました。
あとこれは禁煙して気付いたことなんだけど、煙草を吸う理由って本当の意味では存在しないんじゃなかろうか。きっかけは諸々あるだろうけれど、それを継続している理由は曖昧で、惰性と依存で続けてしまう人が殆どで、第三者の都合で止められる程度の嗜好品。日雇いバイトで会ったお兄さんにとっても、俺の友達のアイツもお前もアナタにとっても、「猿楽町で会いましょう」の小山田にとっても、煙草って絶対に必要なものではなかったのかなと思っている。もちろん俺にとっても。この人がいないと死んでしまうと縋っていた恋人だって、別れて暫くすればケロッと生きていけるもんな、俺たちは。
百害あっても
Twitterも煙草も、かつては百害あってもそれを上回るだけの利益があったように思う。馬鹿馬鹿しいネットミーム、有益な豆知識、漫画やアニメの二次創作、好きなバンドやサッカーチームの情報など。今やそれらをかき消す勢いで先述した粗悪な投稿が溢れてしまっている。煙草も同じく飲酒時のオプション、喫煙者同士のコミュニティの場、耐え難いストレスに苛まれた際の逃げ道として手助けしてくれていた。今では喫煙不可の居酒屋が増え、自分の周りから喫煙者が次々と減り、精神が不安定な日は遠のきつつある。
自分にとってそれらが不要になった毎日は多少生きやすくなった兆しがあるが、依然として拗れた自意識は付き纏い続けている。精神を苛んでいた(であろう)原因を取り除くことで自分の精神が好転するのを期待していた。が、普通にそんなことはなかった。Twitterをやってようがなかろうが、煙草を吸ってようがいまいが、軽薄な人間性と不透明な未来を担いだまま今日もまた一日が過ぎていく。
東京では、先々週と先週で立て続けに雪が降った。まだまだ朝は寒い。ここ数年、朝いの一番にTwitterを見るのが日課になっていた。Twitterをアンインストールしてから一ヶ月が経った。寝ぼけた頭でスマホのロックを解除してから、開くアプリが存在していないことに気付く。やがて意識が遠のき、再び目覚めると朝の準備をするべき時間が差し迫っている。布団から出ようにも寒過ぎて起き上がる気にはなれない。カーテン越しに光る薄白い外の様子を覗きながら、布団から出る理由として喫煙をしていた日のことを思い出した。
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