「だが、情熱はある」が好きすぎる

2023年4月期のドラマ、「だが、情熱はある」が好きすぎる。
4月期、わたしが唯一毎週欠かさずリアタイしたドラマだった。
「だが、情熱はある」の感想やドラマ自体をただただ褒めちぎり、たまにわたしの考察も差し込むブログをここに誕生させたい。


たりないふたりの出現と「だが、情熱はある」のタイトルから受け取れること

「だが、情熱はある」の主人公であるオードリー若林さんと南海キャンディーズ山ちゃんが「たりないふたり」を結成し、お互いが抱える嫉妬・自意識過剰・焦燥・脱力・ネガティブ・陰などなど、負の感情を漫才という形でさらけ出す。
たりないふたりの出現まで、この世には「負の感情」の落としどころはどこにもなかったかのように思う。
常にポジティブに、明るく、人と接することが大好きで毎日ニコニコしている、苦しいことは他人に悟られない様に努力する、いわゆる「陽キャ」に人権がある世界で、負の感情を身体中に抱える「陰キャ」は理解されにくいが故、そのことを必死に隠さなければならなかったように思う。
だからこそ、たりないふたりの出現は衝撃だった。
これまでお笑い芸人が飲み会の2次会の逃げ方を、社交性の足りなさを、恋愛できないコンプレックスをさらけ出すことがあっただろうか。
たりないふたりの出現は、社交性を多くは持ち合わせていない人々に迎合され、「たりなくてもいいんだ」と一種の安心を与えてくれたし、負の感情の落としどころだったように思う。
負の感情の落としどころの先に何があるのか、ドラマを視聴するまでわたしにはわからなかった。そこに来た「だが、情熱はある」というタイトル。
「だが、情熱はある」の「だが、」には、嫉妬にまみれ、瞳の奥が真っ黒で、ネガティブでどうしようもない、社交性もない、そんな負の感情を燃やすための着火剤的な意味が込められているように思う。
負の感情を抱えようとも落としどころを見つけ、「だが、」を着火剤に燃やした先に「情熱はある」をまさしく体現する題名だった。素晴らしすぎる。

たりないふたりを演じる髙橋海人と森本慎太郎の役者魂

たりないふたりを演じる海人くんと慎太郎くん。
キャスト発表時は大きな衝撃だった。おおげさに言うと本家たりないふたりの出現くらい衝撃だった。
わたしは学生時代から放送の度、夜な夜なたりないふたりを見ていたので、まずこのふたりのことがドラマになることが衝撃だったのに、どう演じるのか、どんなドラマになるのか、想像がつかな過ぎて衝撃だったと同時に、想像できないから楽しみでもあった。
ドラマが始まると、ふたりの演じっぷりにひっくり返った。
「そのままやん。仕草も話し方も全部そのままやん。」
と同時に、彼らは若林正恭と山里亮太を演じるにあたり憑依してるでも、擬態してるでも、もちろんモノマネをしているでもない、と感じていた。
演じることを超越しているように思う。演じていることを悟らせない。
役者魂のなにものでもない。
よく「憑依」しているといろんな媒体で見かけたが、私は「憑依」という言葉のイメージと彼らが演じるそのものがどうしてもリンクせず、あえて「擬態」という言葉を使っていた。
最終回を見た後、擬態もなにか違うように感じるくらい、海人くんと慎太郎くんが若林さんと山里さんを深く深く理解し、憑依とも擬態とも表現できない、「その人になる」ことをしていたのだろう。尊すぎる。

実在する人物をドラマの題材にするということ

朝ドラや大河ドラマ、民放ドラマでも実在していた人を題材にしたドラマはたくさんあるが、いま現在実在している人をドラマの題材にすることは想像もできないくらい難しいだろう。
多くの人が生き証人であるし、演じる側も演じられる側にもファンがいて、いろんな方面から賛同異論反論様々な意見が出やすいし、ハードルはかなり高かっただろう。
実在の人物に対して、演じる役者は物凄く寄せるか物凄く離すか。
「だが、情熱はある」はアイドルが芸人を演じるという振り切ったキャストで実在の人物に限りなく寄せることに成功した稀有なドラマだと思う。
間違いなく異論反論は、彼らの演技力・役者魂により見事にねじ伏せられただろう。
山里さんの著書「天才はあきらめた」の解説文の一節を少しお借りすると、
実在の人物をドラマの題材にするドラマ史において、「だが、情熱はある」はその歴史の以前以後に分けられると思う。
実在の人物をドラマの題材にすることへの未来を切り開く。頼もしすぎる。

泥臭さのリンク具合

南海キャンディーズ、オードリー、たりないふたり。
芸人としてのスターダムを駆け上がるなかで、常に不安と闘いながらお笑いに情熱を燃やしてきた過程の泥臭さと、海人くん慎太郎くんが実際に演じているなかで感じる泥臭さとがリンクしていたように思う。
泥臭さの中には不安や嫉妬といった負の感情が混ぜ込まれているが、たりないふたりにも泥臭さを感じたし、それを演じるふたりにも泥臭さを同じように感じた。
その泥臭さは決してかっこ悪くなく、むしろ羨望のまなざし向けたくなるくらいかっこよかった。
負の感情を抱いて終わりではなくて、「何か」に昇華する。
それがお笑いへの情熱であったり、アイドル道への情熱であったり、「たりないふたり」を演じることへの情熱であったり。
自分の弱さと闘いながら、自らの使命に情熱を燃やす。かっこよすぎる。

「こっから」と「なにもの」

「だが、情熱はある」を語るうえで欠かせないのが主題歌であるSixTONESの「こっから」とKing&Princeの「なにもの」だ。
物語の前半は「こっから」が、後半には「なにもの」も加わり、W主題歌としてドラマを盛り立ててくれた。
この2曲はドラマとたりないふたりと何かに情熱を燃やす人々と、なにより各々の歌を歌うSixTONESとKing&Princeのためにある歌だと思う。
ドラマとのリンク具合にもひれ伏してしまうが、特にここ。

これだけじゃやれねぇって分かってる
でもこれしかねぇからこれにかかってる
間違ってる未来でも俺には光ってる

SixTONES「こっから」

掴んでみせるさ夢舞台 マイク一本で

King&Prince「なにもの」

お笑い芸人もアイドルも舞台に立つのに必要な武器はマイクだ。
マイク一本で夢を掴む覚悟、その夢は間違っているかもしれないけど「これ」にかける覚悟。こっからなにものかになっていくんだという決意。
それがにじみ出ている歌詞で聴いた時大きな感銘を受けた。
主題歌とドラマがまるでパズルのピースがはまるかのように合わさっていてわたしは両方の主題歌が大好きになった。CDは両方購入した。最高すぎる。

あとがき

「だが、情熱はある」が好きすぎて、このブログを書きながら好きへの情熱が空回りしていないか心配だ。まあ、空回りしてもいいか、みたいな気持ちで思いのままに書いてみた。
タニショーさんが若林さんに「今、幸せ?」と聞くシーンがある。
幸せを問われる過程で、大切な家族や友人を弔いそれを自らの生業でもって体現していくこと。
若林さんが山里さんの著書「天才はあきらめた」の解説文にあてた、「山里亮太は天才である」。
天才をあきらめた男が盟友から天才だと断言される。
自らの生業を生業としていくその過程で向き合ってきたこと、認めてきたことをわたしは笑いながら泣いて視聴した。
笑いながら泣くって普通はできないし、しない。
わたしは泣きながらごはんを食べたことがある人は強い人だと思うが、笑いながら泣くこともこれに匹敵するのではないかと思う。

「だが、情熱はある」を視聴する過程で、たりないふたりを視聴していた日々のことを思い出していた。
なにものかになりたくてなれなくて、どうしようもなくネガティブで、それをどうやって昇華していいか分からない日々を思い出すことは苦しいと思いきや、そうではなかった。
「だが、情熱はある」を通して、わたしはたりないふたりに励まされていたんだと気が付くことができた。
たりなくてもいい。ネガティブでもいい。自意識過剰でもいい。気にしすぎでもいい。
知らず知らずのうちに励まされた事実をドラマから、演じている海人くんと慎太郎くんから、受け取っていることに気が付いた時。人生っておもしろすぎる。そして「だが、情熱はある」世界がずっと続いてほしすぎる。

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