人は誰しもが鬼になる可能性がある ~鬼滅の刃に学ぶ~
(本記事は「鬼滅の刃」に関するネタバレ情報を含んでいます。)
「鬼滅の刃」に出てくる数々の鬼たち。
一見、好き放題しているようにも見えますが、彼ら鬼たちの世界は大変厳しいものです。
一言で言えば、弱肉強食。
力のない鬼は、鬼舞辻をはじめ上位の鬼たちから暴力と恐怖で支配され、徹底的にいじめ倒され、利用される存在です。
自分の存在価値を無視され、虫けらのように扱われます。
同じくらいの力の鬼同士であれば、少しでも自分が優位に立とうとして、互いに虚勢を張ったり、居丈高になったり、威張ったりします。
力が全ての世界。
鬼同士の間に本当の信頼関係はありません。手を組むのは、必ず何か打算がある時だけです。
そのような世界で生き残るため、常に虚勢を張り、相手を疑い、そして空腹を満たし、さらなる力を得んとして、人を喰らっていきます。
そうして人の心を忘れ、どれだけ虐げられ、みじめな姿を晒し、時に自己卑下に陥ろうとも、心の奥底ではいつも以下のような思いを感じています。
「自分は決して無価値な存在ではない」
「無下に扱われて良い存在ではない」
「自分を認めてほしい」
悲しい心の叫びだと思いませんか。
そうして少しでも自分の心を満たそうとして、自らの欲求をかなえようとして、多くの者を平気で傷つけていきます。
そんな鬼に対し、炭治郎は容赦なく刃を振るいます。
これ以上の犠牲を出さないために。そして鬼がこれ以上罪を重ねないために。
しかし、炭治郎は決して鬼のことを、「価値のない者」「ゴミのような者」として踏みつけるようなことはしません。
自分と同じ一人の人間として扱い、その鬼の抱えている苦しみや悲しみに寄り添おうとします。
その炭治郎の暖かさに触れて、鬼は泣くのです。
そうして、他でもない自分自身の心の中にも、その暖かさがあったことを思い出します。
この暖かさは、彼らが鬼になった時だけでなく、人として生きていた時も忘れてしまっていたものかもしれません。
人は誰しもが「鬼になる」可能性があります。
決して漫画の中だけの話ではありません。
「鬼になる」というのは、姿形が鬼になることを指すのではありません。心のことを言います。
この世の人生を生きていくとき、私たちは往々にして鬼の心を抱えてしまうことがあります。
黒死牟が抱いてしまった嫉妬心、半天狗の自己保身。恨み、愚痴、怒り、執着・・・。
一言で言えば、エゴの思い。
このような思いが芽生えると、その匂いを嗅ぎつけて、私たちの心の中に無惨や十二鬼月が入り込んできます。
そうして耳元でささやきます。
「お前も鬼になれ」と。
私たちの心は、どれだけ他人から否定されようとも、あるいは自己否定しようとも、自分がかけがえのない存在なんだということを知っています。
しかしその思いが自分だけに向けられ、「自分さえ良ければ」と思って他人を傷つけるようになってしまったら、その人は鬼になってしまいます。
鬼殺の戦いというのは、私たち一人一人の心の中の戦いを指してもいるのです。
生殺与奪の権を他人に委ねてはならない。
鬼のささやきを打ち破るのは、「自分ではなく、誰かのために」という利他の思い、そして、これまで自分が与えられてきたものに対する「ありがとう」の思い。
この日輪刀を決して手放してはいけません。
そして皆で助け合うということ。
俺たちは仲間だからさ
兄弟みたいなものだからさ
誰かが道を踏み外しそうになったら
皆で止めような
どんなに苦しくてもつらくても
正しい道を歩こう
かくいう私もかつて、心が鬼になってしまったことがありました。
日輪刀を手放してしまいました。
そんな私が救われたのは、周りの人たちのおかげでした。
「鬼は人間だったんだから」
「俺と同じ人間だったんだから」
「醜い化け物なんかじゃない」
「鬼は虚しい生き物だ 悲しい生き物だ」
炭治郎のこのセリフは、「鬼滅の刃」の中で最も重要なものの一つではないでしょうか。
P.S.
「鬼滅の刃」は絵も良いのですが、何より「言葉のセンス」が素晴らしいと感じます。日本人には、これを母語として読める幸せがあります。