母のただ乗り 1945年秋
終戦直後、母16歳、祖母47歳の秋のことである。
当時、母の一家は興津町(旧・清水市興津 現・静岡市清水区興津 )に住んでいた。食糧事情も芳しくなく、県西部の磐田まで買い出しに行くことになった。
「その頃は、見附って駅名だったかしら。東海道の見附宿。市の名前は磐田だったけど、イモ田っていうくらいのお芋の産地でね。
その頃は駅に行ったからってすぐに切符が買えるわけじゃなくて、朝早くから並んで、浜松までの切符をやっと二枚手に入れて、それで東海道線の汽車に乗ったの。
磐田に着いたら『途中下車』って言って、切符を返してもらう。これが手なのよね。そうでないと、磐田で切符を買うのにまた並ばなきゃならないから」
「おばあちゃん(母は、自分の母親のことをそう呼ぶ)は、わざとよそ行きの服を着て、私にはリュックサックの他に重箱を風呂敷でくるんで持たせたの。ちょうど、法事か復員してきた親戚の面会か、そんな雰囲気にしたのね。それで、磐田の見も知らぬ農家に行っては、上手に話を組み立てて、お米やお芋をもらったの。そのときも、『この次にくるときにはもっと良い物を持ってきますから』って、ロから出まかせを言って。あああ、こんなに人のいいお百姓さんをだましちゃって、大丈夫かなって思ったわよ」
そうやって、食糧を無事調達し、磐田駅に戻ったのだが、誤算であった。方面別の改札をやっていたため浜松行きの切符では改札を通れない。
「仕方がないから窓口の列に二人で並んでいたら、後ろの方から『袋井の切符いらないか』って言ってきた人がいて。一枚しかないけど、とりあえずって買ったの。おばあちゃんはその切符でホームに入って、私は大回リをして駅の横の踏切からホームに上がっておばあちゃんと落ち合ったの。
そのうちに汽車が着いて、乗り込んだら車内は全員軍服姿の兵隊さん。ほかには誰も乗っていない。きっと軍が仕立てた専用列車だったんでしょうね。だから二人でデッキに立って、車掌さんが来たらすぐにトイレに逃げ込めるように、おばあちゃんはあっち、私はこっち、ってずっと見ていたの。幸い誰も来なかった」。
「静岡の駅でもう一度浜松行きの切符を出して途中下車をして、鷹匠町(現・新静岡=静岡鉄道〉まで歩いたのよ。そしたらその当時、進駐軍が魔匠町の駅にも居たのね、警戒で。大きなアメリ力兵が私のリュックの下をヒョイって持ち上げて「へびい?」って聞くの。でも、何しろ敵性語って言われてて英語はこれっぽっちも習っていないじゃない。全然意味がわからなかった。簡単な単語なのにね。それで、鷹匠町の駅から横砂(清水市内線=1975年廃止)まで電車で行って、その先5キロくらい歩いて帰ったはずなんだけど、その先のことは全く覚えていないのよ。人間の記憶って、不思議なものね」
(初出:「ひろば 2003年2月号 」ちば市民ひろば発行)