夢の120円
急に冷え込んだ十一月のある晩のこと。都心の某神社で、「住所不定無職」の六六歳の男性が賽銭箱に手を突っ込んだところ抜けなくなり、レスキュー隊が出動する騒ぎとなった。
僕はこのニュースを、某人権団体の人とラーメン屋で見ていた。まだ若い事務局長は、なんて間抜けな話だろうど呵々大笑。その反応があまりにも冷ややかだったので「でも、それだけ追いつめられていたのかも知れないよ」と僕がいうと、「いくら追いつめられたからって、他人のものを盗んじゃいけないわよね」紫煙を吐き出しながら別の女性が言う。
「最近はさ、ルートはしっかリ出来てるんだよ。どこのコンビニは何時ぐらいに余った弁当を捨てるとか、あそこの店は絶対くれないとか」。したり顔で、古参の理事が語る。
その場の雰囲気は、僕を除いて皆、囚われた「ホームレス」に対して冷淡であった。
たしかに、他人のものを盗るのは悪いことだとされている。しかし、現場は神社である。
たいていの人は、神社に対して「貸し」があるはずだ。この男性も、かつて仕事に恵まれていたときには、幾ばくかの硬貨を賽銭箱に投じたことだろう。正月三が日は別として、賽銭箱の中身はたかが知れている。そのことも、むしろ気を楽にさせたに違いない。
実際、ホームレスの人々が餓えに耐え、盗まなかったらどうなるのか。たとえば大阪市では、二〇〇〇年に二一三人のホームレスが路上で死を迎えているのだが、そのうちの一八名は明らかな餓死であった。また、凍死した一九名のうち半数は歴然とした飢餓状態。このような状況にある人に「盗みは絶対にいけない」と説くことは、ぼくにはできない。
さて、件の男性は、いったいどうして賽銭箱に手を入れたのだろうか(助詞の順序が入れ替わり、「賽銭箱を手に入れた」だったらどんなによかったか)。
ぼくは、きっと一二〇円欲しかったんだと思う。
たしかにコンビニの残弁当など、食糧は手に入リやすくなった。けれど、どれほど「優しい」コンビニの店長でも、捨てる弁当は温めない。
冷え切った弁当。
公園の水道の冷たい水。
今秋一番の冷風。
「人の世に熱あれ」と虐げられた人は叫ぶ。
熱でなくてもいい。わずかでもぬくもりがほしい。
早すぎる冬の訪れは、まだ夏の疲れも癒えぬ身にこたえる。
そして通りのそこここに、温かい飲み物を売る自動販売機。
一二〇円あれば…。
その夜、ぼくはこんな夢を見た
賽銭箱に手を突っ込んでいる。
爪の先に硬貨の感触。
しかし、かじかんだ指は硬貨を上手くつまめない。
つまみ損ねてほんの数ミリ、硬貨が逃げる。
少しだけ力を込めて、腕を深く差し入れる。
その繰リ返し。
肩口まで腕が入ったとき、やおら、賽銭箱のロがガバっと大きく開き、そのままぼくは食われてしまった…。
(初出:「ひろば 2002年12月号」、ちば市民ひろば発行)