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ふたつの映画を観て、〈ろくでなし〉か〈無責任〉かについてのメモ

昨日植木等主演の『ニッポン無責任時代』(1962)を観て、今日は吉田嘉重の『ろくでなし』(1960)を観た。前者は日本コメディミュージカルの傑作、後者は松竹ヌーヴェルヴァーグの傑作と、同時代でありながら形式に大きな違いがある二作だが、この二作を続けて僕は観た。すると会社のセットが(ちゃんと確認してないがおそらく)同じだった。そもそも構造も高度経済成長期の上っ面だけの近代化(労働組合を組むことに意味を見出し、決してストライキは起こさない太平洋酒の社員/人間は狼とかよくわからんことを言う社長など)とその領域を横断する者たち(リストラされるのを恐れない植木等/女に縛られる人生を拒む津川雅彦)を描いているという意味で似ている。
その領域横断する者たちは一方では〈無責任〉に喜劇的にふるまい、もう一方では〈ろくでなし〉のように信念を曖昧にしてふるまう。そして終わり方にも大きな違いがあり、植木等は社長になって秘書と結婚するのに対し、津川雅彦は秘書に抱かれながら死ぬのだ。
まず、『ろくでなし』の領域横断性について考えたい。津川雅彦は、「齷齪もせず、自堕落でもないあなたが好き」的なことを言われているが、そのセリフが示すようにどっちつかずの存在であり、これは二項対立からの決定を留保することによって生じている。彼は一本の信念をもって固着化した生を生きることに一種の恐れを覚える。だから、女からも言われるようにい自分の本当の気持ちに正直になれない。僕ら鑑賞者もあまり津川の人間像を掴めない。信念の軸を作ることで生じるのは、〈表と裏〉であり〈真と偽〉である。この映画はその〈真と偽〉が目まぐるしく入れ替わることで進行力を得ている(冒頭の真の金と偽の拳銃は、最後偽の金と真の金に姿を変える)。
その単方向性への恐怖から生じた多方向的な信念が「ろくでなし」の津川であり、その信念への否定ノンは結局いつも秋山と過ごしたり、部屋でぼーっと眠る固着化した生へと導いている。それはリゾーム的な創造的な生き方ではなく、恐怖に由来した多方向性でだからこそ最後彼は〈真と偽〉の交通によって死ぬのだ。
ロゴスの不完全さに対して、原初の自然的な暴力の力を介入させ相互作用によって領域横断していく、バタイユの言うところの<禁止と侵犯>的な領域横断性がある。僕のイメージでは、禁止と侵犯の図式はロゴスのグリッドを暴力的な力でゆがませるイメージがある。
それに対して『ニッポン無責任時代』の植木等は、喜劇的な領域横断をする。僕らは津川に対する見方とは違って、植木等の存在を捉えやすい。それは喜劇的に無責任であると言う軸が彼の中に見えるからだ。軸があることによって生じるのは常に真と偽であるが、この喜劇的に無責任であると言う軸は、その真と偽を両方持ったような、真と偽を〈浸透〉させたような状態を生む。
言語などにより作られるロゴスの世界に対して、原初の自然的な暴力性で変化を与えるのではなくて、ユーモアは、連想、音の連なり、隠喩、換喩などにより、言語から意味性を剥奪し連ね、世界を奇妙な形で〈再積分〉させ立ち表す力がある。真理をコケにして相対化する力を持つ。これはロゴスのグリッドを〈浸透〉させてくゆらしているようなイメージがある。
僕はベルクソンが『時間と自由』でちょろっと触れている(なんか否定的に触れていた気もするが)、体の中にある無数の多方向的に絶えず生じているたくさんの力(エクセ的な)が、たまたま重なり合って合力を獲得し、意識の上で顕在化すると言ったような世界観が好きなのだが、喜劇的に無責任であることは、この合力に敏感であることだとも思う。その内発的な合力を捉えて、それに従って動くことで、あらゆるところに接続されて切断される。このようにリゾーム的に生きるにしても内発性が大事だと思うし、その無数の力の矢印が生じる核のようなものを動き回りながらもしっかりと育て続けることが大事だろう。その核っていうのは千葉雅也がyoutubeの波頭亮と話している動画で言ってた、家庭菜園的なものなのか。
宮台真司がよく言う侵犯としての祝祭での青姦みたいな自然の介入が難しく、悲しくも現実的に感じれない現在において、それを可能にするのは喜劇的に核で生じる合力に敏感に反応し、ユーモアで世界を再積分することなのかもしれない。信念の否定というイロニーではなく、ユーモアを。


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