短編小説 「彼は彼女になった」

恭子は区役所で事務処理の仕事をしている。ハローワークの求人を見て応募し、採用され働き始めた。非正規雇用である。でもフルタイムだし、雇用保険や厚生年金もあるし、恭子にとっては問題はない。子どもが2人いて、下の子が大学に入学して、家を出て行ったのを機に仕事を始めた。お金に困っている訳では無かった。恭子は自分を取り戻す為に、自立する為に、仕事を始めたのだ。今年で丸2年になる。恭子の部署は結構忙しい。住民票の移動の手続きをする人が大勢やってくるのだ。月曜日から金曜日までフルタイムで仕事しているので、数えた事はないが、1日2、30人の移動の書類を扱っている。金曜日の17時過ぎ、手持ちの仕事を終わらせて区役所を出て、暫く歩き、信号待ちしていたら、隣に同じく信号待ちしていた女性が、恭子をじっと見ていた。恭子は視線を感じた。
森さん?
と声をかけて来た。え?私の旧姓、知ってる人?「えっ?」と言い、その女性の顔を見た。彼女は笑顔で「間違えてないですよね、森さんですよね!私、松中電工で一緒に仕事してた保坂です」「ああ、あの会社の?」と、恭子は本当に驚いた。目の前の女性の顔をじっと見るが、老眼もあり、よく見えてなくて思い出せない。確かに松中電工で1、2年派遣社員として働いていたが、30年以上前の事である。支店の同じ部署には100人近い社員が居たし、挨拶程度の軽い関係の人がほとんどで、唯一仲良かったのは同じ派遣社員の粟野さんくらいだ。保坂ですと言われても、どうリアクションしてよいのか、なんだか無表情な恭子を見て、彼女は「ごめんなさい、びっくりさせてしまって」
恭子は慌てて「気にしないで。ただ、昔の面影など見当たらない程歳とって来て、よくわかったよね」と恭子が言うと、保坂さんと名乗る女性が、「身長高い人がいるな、と、顔見た瞬間、あれ?と思って」「確かにね、170㎝超え女は令和になっても少数派だもんね。歳とって少し縮んだのよー。でも声掛けてくれて嬉しいよ!だって松中電工での仕事は、私1番楽しかったから」主にショールーム担当だった恭子は、今と違って尖っていたし、男っぽかった。宝塚の男役とか言われたり、お笑いや面白い事も大好きだった。30年という歳月は人間の性格迄変えてしまうのかと、なんだか自分自身腹立たしくもあった。そもそも夫との結婚は失敗だった。しかし今さら悔やんだところで何にもならない、過ぎた時間は戻りはしないのだから。「保坂さん?今から少し時間ある?コーヒー飲まない?近くに、私が時々行くJAZZ喫茶があるんだけど」と思い切って誘ってみた。すると、
「少しだったら大丈夫です。行きましょう!」とすんなり承諾してくれた。
恭子は意外な再会?に懐かしい気持ちが一気に溢れて、久しぶりに笑顔を取り戻していた。10分ほど歩いて、川沿いのお店の入口の前で、「なんか昭和っぽいでしょ!」と恭子が言うと、保坂さんが「私達にピッタリじゃん」と言い、中に入って行った。
「RIVER SIDE」は1960年 代からある、昭和の空気を纏ったJAZZ喫茶である。この辺りで当時から今も変わらず営業しているJAZZ喫茶はここぐらいになってしまった。コロナ禍を機に閉店したお店が沢山あった。
保坂さんが中に入るなり、「わぁ、いい感じ、森さんが好きそう」と小声で言った。奥の壁一面にLPのジャケットが飾られていて、勿論レコードでJAZZを聴かせてくれるお店である。
恭子はカウンターの中のマスターに「アイスコーヒー2つ」と言って奥のボックス席に座った。向かい合わせに座って、彼女の顔を改めて見たが、やはり思い出せない。恭子は、(忙し過ぎて私ボケ始めたのかも、、もうじき還暦だしな、)と考えたりしていたら、保坂さんが感じ取ったのか、「私変わり過ぎちゃって、いつもびっくりされるのよ〜」と気遣った。恭子は、目の前の女性が保坂さんだろうが、別の人であろうが、正直どうでも良くなっていた。恭子は仕事が終わって、そのまま家に帰りたく無かったのだから。過去に同じ職場で仕事して、あの時期に同じ時間と同じ空気を吸っていたんだ、もうそれだけで充分なのだ。保坂さんが「私、森さんとそんなに親しくなかったけど、森さんJAZZが好きだったよね」と話し始めた。「え?良く覚えてるよねー」と恭子が言うと、「ほら、もう1人派遣の人がいたじゃない?私名前ちょっと忘れちゃったけど、彼女からカセットテープもらったのよ」「ああ、粟野さんね!」「そうそう、粟野さん!チワワみたいな目をした人」と保坂さんがゲラゲラ笑ったから、恭子はつられて笑った。「粟野さんが、JAZZのカセットテープが、2つあるからって、1つ貰ったのよ。いきさつは忘れちゃったけど」と保坂さんが言った。そうか、そうなんだ。そう言えばあの頃は好きなJAZZのLPをカセットテープに吹き込み、誰彼関係なく、渡したり、誰かのと交換したりするのが流行っていた。当時の事を、少しだけ思い出していた。
「誰のLPだった?」「ほら、ピアノがめちゃくちゃ上手くて、鼻唄混じりの、ほら、、ええと、」恭子はすぐ思い出した、保坂さんが「あっ、思い出した!」と言った後、二人は同時に「バド パウエル」と叫んだ!保坂さんが「私"クレオパトラの夜"が大好きで、テープすり減るくらい聞いてたー。私あれからね、JAZZピアノにハマったんだー」「そうなんだ、じゃ私がJAZZの扉を開けるきっかけを作ったと言う訳か〜」恭子は正直嬉しかった。自分が誰かに影響を与えていたなんて、今の恭子にはない事だから。「森さんはJAZZのLPいっぱい持ってたんじゃない?私ブルーノートの名盤のソニークラークのアルバムをカセットテープにダビングしてもらった事があったよ」「そんな事あったっけ?覚えてないんだよね、あっ、でも、当時はカセットテープをやり取りしてたのは良く覚えてるよ。誰かがマイケルジャクソンのスリラーをダビングしてくれてさ、私貰ったのよね」「ああ、それヤマモト。彼マイケルにハマってたよね」「そうそう、そう言えば、新入社員のメンバーでムーンウォークの練習してなかった?」「してた、してた」保坂さんは手を叩いて大笑いした。恭子も笑いがとまらなかった。すると、カウンター席のオッサンが恭子達をチラッと見た。ここはJAZZ愛好家達の溜まり場なのだ。恭子達は構わず続けた。30年前の事がぼんやりと映像になって再現されていた。昔話はそれを共有できる人と話してこそ盛り上がるし、楽しいのだ。だからといって、恭子は過去に戻りたいとは思わないし、あの頃が良かったとも思わない。ただ同じ時代を生きて来た同世代と会うと、ホッとする。マスターが、アイスコーヒーをテーブルに持って来て、恭子達がはまってたバドパウエルのアルバムthe scene changes THE AMAZING BUD POWELLを掛けてくれた。恭子と保坂さんは話すのをやめた。特徴のあるピアノの弾き方、目を閉じて音に浸った。恭子は心の中で(JAZZ、私はやっぱり今も好き。保坂さん気付かせてくれてありがとう)
保坂さんが「実は私、母親と一緒に住んでるのよ、母親が80代なんだけど、まだまだ元気でさ、毎晩ビール飲んでるよ。帰りにデパ地下で惣菜買って帰るわ。ところで森さんは結婚したの?」と保坂さんが尋ねた。「まぁね、子どもは二人共家を出て、一人は熊本、一人は東京に住んでる」
「じゃあ、ご主人と二人でいいじゃない」「良くないわよ。しんどい。今日だって、家に帰りたくないから、誘ったのよ」
と恭子が言うと「色々な事が起きるよね人生は、それでも生き続けなきゃいけない。だったら楽しい事を見つけたほうがいいよね。私なんか母親と2人でしょ、じきに介護が始まる。でもね、唯一私の事を守ってくれた人だから。こんな私を自慢の子と言ってくれた人だから。まぁ最後は看取らないとね」と保坂さんが言った。「なんかあったの?」と恭子は尋ねた。普段の恭子なら人と距離を置いてしか付き合わないから、家庭の事情など絶対尋ねたりしない。だけど、何故か聞きたくなって尋ねた。「色々な事があって、両親が離婚したのよ。今じゃ離婚なんて珍しくもないけど、当時はねー、、父親と私には確執があって、、そのたびに父は母親に
、お前の育て方が悪いからこうなったとか怒鳴り散らしてた。でも母親は毅然として、私の自慢の子、どこに出しても恥ずかしくない子ですと言ってくれてたのよ。今は母も楽しい老後過ごしてるけどね。話せば長くなるよね」と保坂さんが言った。恭子は「ごめんね、なんか色々聞いちゃって」と言うと、抑えられなくなつて、自分から喋り出した「うちも、子どもが出て行って、夫のモラハラがしんどくてさ、もう水と油。ものの見え方、言葉の解釈の仕方、価値観が違いすぎて、一生混じり合う事はないよなと思うんよね。でも保坂さんのお母さんみたいに強くなれないし、ほんと情け無い」と言った。すると、保坂さんが「いいよ、強くならなくて、恥じる事無く前を向いて進んで行くしかないのよ。後戻りは出来ないから。ねぇ、アイスコーヒー美味しいよね。このお店、私達にとって癒しの場所になりそうだね」そう言ってくれた。そんな彼女の顔を、恭子はどこかで見た事があると思い、じっと見つめた。一流企業で、正社員で勤務している保坂さん達は、恭子達派遣社員からみたら羨ましい人種であり、高嶺の花的存在だった。新入社員が入って来ると、派遣組は裏で品定めしたりしていた。
しかし、時間が過ぎ、時代が変わり、企業も変わり、私達の関係も変わったのだ。恭子は嬉しかった。保坂さんとはいい友達になれそう、いや、なっていくだろう。そんな予感がした。
曲が終わり、恭子と保坂さんは店を出た。
7月の夕方7時は、空はまだ明るく、空気が生温かった。
恭子と保坂さんはLINEを交換した。
別れ際に、保坂さんが真顔で、「さっきさ、森さん私の顔じっと見てたよね、、覚えてない?俺、、マイケルジャクソンの山本で〜す!マイケルみたいに顔はいじって無いけど、女性ホルモンは森さんより遥かにいっぱい、パンパンで〜す!」といきなり告白した。「えっ、えっ?ちょっと待って、待って、山本?新入社員の山本〜?ウソ、ウソ、ホント?」
当時の山本君は恭子より色白で華奢で、30年後の姿は、、なるほど納得出来る。
「なんでよ、ウソ付かず最初から言えばいいのに、保坂とか言うから、」すると保坂さんは「母親が離婚したから保坂になりました。ウソついてないって」と言いながら、ムーンウォークの真似事をやり始めた。へっぴりごしのオモロイ性格は変わらなかった。恭子はそれを見ながら、吹き出して爆笑した。そして涙が溢れて止まらなかった。山本君、いや保坂さんは背中向けて右手をあげて「じゃ又LINEするからねー」と言って、歩いて行った。その背中を見つめながら、(保坂さん、今もずっと戦い続けてるんだね)と心で思った。恭子は、笑いと涙で化粧がぐちゃぐちゃになりながらも、恥じる事なく顔を上げ、駅まで真っ直ぐ歩き始めた。



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