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0123「秘密」



「ふう。ああごめんごめん。お待たせしちゃって。ええと。ここでいい?ここでいいのかな……、はい。えー、と。そうか、はいはい。えっと、んんっよし。丸井です。丸井亨といいます。美容師、ですね。もう15年以上やってます。最初は大阪の別の店で修行みたいな感じで、下積みっていうか、ですね、働いていたんですけど、それからこの店にやってきて、それは……、だいたい10年くらい前かな。そんな感じで、毎日お客様と、お客様のカラダの一部である毛髪、それらとあとは自分のなかの矜持、や、美意識、と言葉にしてしまうのは個人的には気が引けるところがあるのですが、照れ臭いし、はは、お客様のコンディションと性質、性格、そして自分ができうる最大限の施術を掛け合わせてなにができるのか、なにができたのか、そんなあれこれと、向き合う日々ですね、ずっと。
 うん。よく覚えていますよ。みんなまだ学生さんでしたよね。覚えてる……うんうん。電話で、今日五人大丈夫ですかーって。ちょうどその日は暇な日で。うん、うん。はは、美容院をジャックしたら楽しいかなと思って、って。言ってましたね。楽しかったな。実際私たちも楽しかったですよ、あれは。だからあれから一年くらい経って、ヨシノくんがおひとりでいらしたときも、ああ、あのときの子だ、って思いました。カルテを見るまでもなく、わかりましたね。うれしかった。それから三〜四ヶ月に一度くらいのペースでヨシノくんはカットにいらっしゃるようになって、ヨシノくんが大学を卒業して、京都を離れるまで、私はヨシノくんの髪を切ってきました。ヨシノくんは。……あーいや。うん。これは、プライバシーに関わることなので……、でも、……ああいや。うーん。……。まあいいでしょう。いやいや、ほんの些細なことなんです。けれど本人にとっては隠したい、大切な情報ということもありうるなと。それは、わからないじゃないですか。誰にもわからない。毛髪というのは人の、プライバシーの塊でもあるんです。美容師という職業は、毛髪や頭皮、という、個人の膨大な情報をいっとき扱う職業でもあるわけでして。とはいえ私はここでこうして話し始めているわけですし、うん。いや、ごめんなさいね。じゃあ、そもそもこの話を受けることにした私は一体なんなんだ、という。ああ、いやいや、責めているわけではないんです。それに、わかっています。うん。
 ヨシノくんの髪は比較的クセがすくなくて、毛量はそこそこあったのですが、一本一本がどちらかというと細いほうで、ほどよくコシもあったので、施術する側としても扱いやすい、鋏の通りの良い毛髪でした。ただ、左側頭部の、こめかみの辺りから耳のすぐ後ろ辺りにかけてだけ、すこし髪の流れが違っていて。右と左で微妙に違っていて。こう……、右はストンと落ちるように生えるんですけど、左はすこし後ろに流れるように生えるんですね。なので、左右で形を揃えるときには、その流れの違いを考慮して、角度や長さを微妙に調整する必要があって。とは言ってもそれはほんとうに些細な違いでもあって、仮に左右を同じように切ったとしても、はたから見たら、というかじっくり見ないとわからない、いや、じっくり見たとしてもわかるかどうか、という、そういう違いではあったのですが。うん、うん。そうだなあ。そうですね。私も、数ヶ月に一度の頻度で何度もヨシノくんの髪に触れているうちにわかってきた差異ではあって。だから、そういう微妙な調整に至ったのは、ヨシノくんが大学を卒業するすこし前のころとかで。ずいぶん時間がかかってしまいましたね。ヨシノくんも、ご自身のそういった毛髪のクセについては気がついていなかったようで。ヨシノくんが最後にうちの店にいらしたとき、話の流れで、毛髪の左右の微妙な違いについてお伝えしました。知らなかったな……、とヨシノくんはやけに神妙な声でつぶやいていて、私は私で、ようやくわかってきたのになー……、と引っ張られるようにしんみりとつぶやいたのを、なぜだかやたらとはっきり、覚えています。そうそう、その、最後の日、ヨシノくんからコーヒー豆をいただいたんですよ。一杯分くらいの量の。友達が煎った豆なんですけど、コーヒー嫌いじゃなければ、もしよければ、って。そのヨシノくんのお友達はいま、京都でカフェをやっていますよね。すこし前に、一度行きました。
 トオルさんは、生きててよかったなーって思う瞬間、ありますか。って、いつだったか、ヨシノくんに訊かれたことがあります。それは、どんなときですか。って。私がなんて答えたのかは、秘密にしておきましょうか」

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