0138「エネルギー」
早番を終え、自転車にまたがり、青山霊園を通って迂回する形でエマは新宿へ向かった。赤坂御苑と明治神宮の間を走り抜けたのち、信濃町から千駄ヶ谷へと通じる道で、利用客のすくなそうなコンビニを探してトイレで軽く化粧をする。エマはこのあと、マッチした人と新宿でご飯を食べる。久しぶりにまともに会話ができる人間とマッチして、エマの気持ちはピンと集中していた。エマは取り繕うのが苦手だ。苦手というだけで、取り繕うときは取り繕うし、嘘だってつくし、騙そうともする。けれど苦手は苦手だから、取り繕った態度はすぐにほどけるし、嘘はバレるし騙せない。エマはマッチングアプリのプロフィール欄でも書かなくていいことをわざわざ書き、これではいけないと添削するたびに、余計な文言が増えていったり、語彙が刺々しくなっていった。「え、ちんこついてんの」「ヤろ」「受け攻めどっちですか」「オカマってことかな」「結局男なの、女なの」「ぼくドMなんですけど大丈夫ですか」「死ね」「好きな体位はなんですか」「男が好きなん?女が好きなん?」「アナルセックスしかできないってことか」「むずかしそうな人ですね」「あ、膣あんの?」「えっちですね」「エロ」「性別偽って登録してますよね?通報しました」「おれむしろあなたみたいな人に興奮するっていうか」「綺麗ですね」「ぼくのペニス見てもらえます?」「おしり」「お前きも」「ホテル行きませんか」「ごめんなさい、男性とは付き合えないんです」。エマはマッチした相手からどんなメッセージが来ても、ひとまず対峙する、という姿勢を崩さなかった。死ね、去ね、くたばれ、滅びろ、殺す、いや、もうこいつらは、死んでる。そう思いながらも、エマはひとりひとりに自分の身体のこと、性別のこと、指向や嗜好のことを、なるべく誤解がすくなくて済むレベルで簡潔に説明し、会話を試み、それはときおり成功し、大半は失敗した。黒い感情を向けながら説明や会話を試み続けるなか、エマは思う。わたしはほんとうは、自分自身にこの感情を向けているのかもしれない。死ね、くたばれ、殺す、いや、もうわたしは、死んでる。そうなのかもしれない。でもそう思いながらも、あるいはそう思うからこそ、エマはマッチングアプリをやめることができないのだった。
新宿駅前の、瀟洒なビルの地階の店で、エマはマッチしたその人と待ち合わせていた。ややカジュアルな、割烹料理店にBALの要素を混ぜ込んだような趣の、価格帯や料理の質のわりに客層の若い店だった。エマとその人はカウンターに横並びで座り、生ビールを頼み、造りを頼み、串を頼み、白焼きを頼み、胡麻豆腐の揚げ出しを頼み、なぜかメニューにあったレバーパテを頼んでふたりはワインを注文した。その人は大学で宇宙工学の研究をしていた。エマにはむずかしい話はわからない。エマは、むずかしい、自分にはわからない、けれど心血を注いで取り組んでいる話をその人がしてくれている、という状況そのものの滋味深さを真剣に味わっていた。それが肉体の話でも、性の話でも、好きな体位の話でもないことに素直に喜んだ。エマはその人に質問を繰り返し、その人は、エマがわからないことをわかるように、そして次第に、わからないことそれ自体を尊ぶように、エマに宇宙の話、エネルギーの話をし続けた。
ふたりが2本目のワインを注文したとき、若い大将らしき店員が、カウンター越しにふたりを交互に見てから、彼女さんですか、とその人に訊いてきた。訊かれてしまった。エマは瞬時に酔いが冷めた。こういうときの、エマのそばにいるときの男性の反応で、エマは幾度も地味な絶望を味わってきた。しかしその人は躊躇なく、大将らしき店員に、まだ違います、と答えた。まだ違います。エマはその言葉を頭の中で反芻した。まだ違います。それからエマは、店を出るまで、その言葉を大切に反芻し続けた。
こんなに楽しかったのは初めてです、と、その人は言った。ふだん、マッチングアプリで会うような人は、僕のこんな話を真剣には聞いてくれない。いや、聞いているのかもしれない。でも結局、お金をたくさん稼いでいる、稼いでいそう、これから稼ぎそう、ってことしか考えていないのが見え見えで。おだてられることにも疲れたし、興味を持たれない事柄についてわざわざ話し続けることにも飽き飽きしていたから。だから、ほんとうに、今日はたのしかった。あなたと会えて、たのしかった……。その人は数秒黙り、そしてエマの顔を見ないまま続けた。こんなことをあなたに言うのは酷だとは思うんですけどね、僕は、性欲がとても強いという自覚があるんです。毎日……したい、くらい。そういうことを考えると、だから、エマさんとお付き合いするのは、正直むずかしいかな、お互いにとって、つらくなってしまうかな、と思うんです。エマはその人の言葉をうなずきながらただ聞いていた。でもほんとうに、会えてよかった。たのしかったんです。もしよければ、連絡先、交換しませんか。もちろん、とエマは言って、ふたりはスマホを取り出した。片方が片方のQRコードを読み取って、片方が片方にスタンプを送信した。そうしてふたりはビルの前で別れた。
自転車を回収して、エマは自転車を漕ぐ気にはなれず、自転車を押したまま、甲州街道を歩いた。人が、人が、たくさんの人が、エマとすれ違ったり、追い越したりする。エマはコンビニで紙パックの鬼殺しを買って、ストローでちびちび飲みながら、また歩いた。歩いているあいだ、エマはずっと微笑んでいて、けれど眼は虚ろに信号機や街灯の光を捉えたり逃したりしている。エマは歩いている。明日のシフトが遅番でよかった。歩きながら、エマはなににでもなく、ただうなずいている。うなずいて、うなずいて、うなずいている。