0107「ローソン」
1
エレベーターの扉が開き、つま先あたりを見るともなく見ていた状態から顔を上げると、視界の端に、人間のつむじのようなものが映ったような気がした。
いや、これはつむじだ。
そのあと、土下座だ、と気づいた。3人。私に向かって頭を垂れている。
「……あ」
エレベーターから出られずにそのまま〈開〉ボタンを押して、なんとなく気まずい思いでしばし黙って見ていると、横並びになっている人/つむじのうち、真ん中の人/つむじがクワッと動いて、私と目が合った。
「ちょ、や、ちょ〜〜〜っとやだやだごめんなさいごめんなさいねえほ〜んと!」
それで両隣のつむじもクワッと動いて、一斉に私の顔を見た。燕の巣、その中にいて、餌を待つ雛のような、そういう画が浮かんで、へへへと笑う私のその表情に、この人たちを間接的に追い詰めるどんな些細な意味も含まれていないといいな、と思いながら、「あの、どうぞ。行ってください」と正座のまま手を横にやってどうぞどうぞと促す真ん中の人に「ごめんなさいこちらこそ、おつかれさまです」と言って、私はエレベーターを出て、ビルを背にして歩いていった。
ビルの目の前にある小さな道路を渡ると、立地のわりに大きな駐輪場がある。自転車のチェーンを外して、そのままチェーンを肩にかけていると、さっきの3人の「どうもありがとざぁっしたぁ〜〜〜〜!!!!」という、怒号にも似た叫び声が聞こえてきた。続けて数人の笑い声。お客さんだろう。「なんやねん」とか「寒いやろ。はよ戻りいや」とか「またな〜」とか、口々に言っている。私はビルと一緒に、それらの気配にも背を向けて、自転車に跨った。
2
ピンキーベアーという名前のキャバクラで、ボーイとして働いている。学生のころからお世話になっているから、もう5年以上働いていることになる。繁華街の入り口みたいな場所に立つ、8階建てのビルの4階。そのひとつ上の5階には、パワーバランスという名前のニューハーフパブが入っていて、さっきエレベーター前で土下座していたのはそこで働いているドラァグクイーンやニューハーフのキャストだ。お店の出口である5階のエレベーターホールでお客さんをお見送りして、エレベーターの扉が閉まった瞬間、非常階段を猛スピードで駆け下りて、お客さんの乗ったエレベーターが1階に到着するより早く、1階のエレベーターホールで土下座をして待機する、という、さっきの土下座はその鉄板のお見送り芸だ。エレベーターは2基あるから、きっと他の階で乗り降りがあったりして、私の乗ったエレベーターのほうが早く着いてしまったのだろう。こういうことはたまにある。パワーバランスのキャストと私が顔を合わせて、言葉らしい言葉を交わすのは、こういう「芸のタイミングミス」みたいな瞬間しかない。
3
夜明け前の川端通りを、自転車で走る。帰る。通り過ぎていく。いろんなものを。景色のひとつひとつに揺り動かされる感性がすこしずつすり減っていって、まっすぐ伸びた道の遠景も、川の音も、やけくそみたいなスピードで通り過ぎる空車のタクシーも、帰り道、ということでしかなくなって。それでもたまに、目の前でパワポのスライドが始まるみたいにして、思い出すというより映される記憶はあって。それは例えば学生時代、ビンゴカードに穴を空けるように毎週毎月違う人と寝ていた時期に飲んでいた缶コーヒーの平べったい味、それは例えばピンキーベアーで働き始めたころ、お客さんに灰皿を出すのがいつもワンテンポ遅れてしまう私の覚えの悪さに耐えかねて「殺すぞ!!」と吠えてきた代表の両眼の黒いところと白いところ、それは例えば10代の終わり、泣きながらXVideosでエロ動画を観ていたときの実家の冷蔵庫の駆動音、それは例えば、例えば、例えば、が続いていくうちに私の身体と私の自転車は冷泉通りの手前まで来ていて、ブレーキをかける。自転車を停めて、ローソンに入っていく。決まりきった歩幅と腕の振りでおにぎりコーナーまでずんずん進んで、おそらく棚に補充されたばかりであろう納豆巻きを取って、レジへと向かう。お釣りを渡してくる店員の〈康〉という名札が微かに揺れる。〈康〉さん。いつも無言で、もしくは必要最低限の声しか出さなくて、この時間、という感じが私はとても好きだ。この時間帯のこのローソンにはあと〈パク〉さんがいて、〈パク〉さんは〈康〉さんよりすこしだけ声に強さがある。それはそれで、この時間への抗い、みたいなものを感じて好きだ。ふたりは私を、バックヤードで〈納豆巻き〉とでも呼んでいるだろうか。どうだろうか。明け方にやってくる、納豆巻きの、アイツ。
4
川端通りから冷泉通りに入って、東大路通りとぶつかる交差点の一角に馬渕マンションという建物があって、私はそこに住んでいる。帰り道、川端二条をすこし上がった先にあるローソンまでは自転車を漕いで、ローソンで納豆巻きを買って、そこからは歩く。琵琶湖疏水や、ちんまりした造りの夷川ダムを視界の端に捉えつつ納豆巻きの包装を外して、海苔を歯で切るように食べながら、馬渕マンションまでの一本道を歩く。以前付き合っていた人が、納豆を異様に嫌う人で、目の前で食べることはおろか、会っていない間に納豆を買うことすら許してくれなかった。納豆がないと生きていけないくらい納豆が好き、というわけでもないけれど、そこまで固く禁じられるとなんとなくむずむずと食べたくなってくるというものだ。だから当時は、どうしても納豆が食べたくなったら、コンビニで納豆巻きを買って鴨川を散歩しながら食べたり、コンビニの前で立ち食いしたり、そうやってバレないように、外でこっそり納豆を摂取していた。その人とは比較的すぐに別れたのだけど、納豆巻きの買い食いは、日々の平静を保つための、なにか、お守りめいた行為にいつの間にかなっていた。
5
家に帰って、寝支度を一通り済ませて、アラームをセットしようとしたところでようやく、店にiPhoneを忘れていることに気がついた。と同時に、私の部屋には時間を確認するものがiPhoneしかなかったのだな、ということにも気がついた。
6
「夜、おっきい道を自転車で走っているとき、ここで暮らしているんやな、って不意に意識が近いのか遠いのかわからん感じになる。道路の上の、あの青い、道路標示、道路標識か、道路標識がやたらとはっきり目に映ったり、道路工事の作業員がコンクリ均したりかち割ったり、とか、ぽつぽつ歩いている人、たまに追い越していくバイク。なんかそういう。わからんけどなんかそういうの。ここにいることが、信じられんくなる、なるし、はっきり実感として受け取ったりもする。そういうの。わからんけど、なんか、そういうの」
7
目が覚めて、外の景色は薄暗くて、数十分しか眠っていないのか、半日眠っていたのかがわからない。着替えて、顔を洗って、歯を磨いて、すぐに外に出る。自転車に乗って、冷泉通り、川端通りを、まっすぐ、まっすぐ、下る。身体と自転車。風。スライドみたいに映る記憶。もう5年以上、あそこで働いていることになる。わからんけど、なんか、そういうの。友達だったかもしれない人の、親密だったかもしれない言葉が私の眼に映る。自転車を停めて、エレベーターホールに立って、ボタンを押して、下降するエレベーターを待っている。ただ待っている。