0124「ドロシー」
京都の夏は暑いというより重たく、冬は寒いというより鋭い。
「でもカジさん。オズの魔法使いって、“もう持っていたことに気づく”話ですよね?」
ぼくは隣でタバコを吸っているカジさんに言う。
大学に入学してから、三度目の春。人懐っこく風景にまとわりつく山々に囲まれて、盆地の重さも鋭さも巡り巡った。すずしい夜風に前髪をつままれて、離されて、まだまだ遊び足りないよ、とこの場所に言われているよう。すぐそばを流れる疎水の音は思いのほか勢いがあって、昨夜の雨がどこかへ流れる途中なのかもしれなかった。
「んえ?」タバコの煙をあらかた吐き出してから、カジさんは呆けた声を出した。「どゆこと?」
大学から歩いてだいたい20分くらい。叡山電鉄一乗寺駅と茶山駅のだいたい中間地点を越えて鴨川に向かって進んだ辺りの、白川疎水通沿いにぼくとカジさんはいる。たこ焼き屋のあたり、と言えばわかる人にはわかるだろう。たこ焼き屋の裏手に細く伸びる疎水沿いを歩くと十字路にぶつかり、その十字路の一角にはすこし大きめのマンションがあって、マンションの一階部分はかつてここの地主が経営していたのか酒屋だったらしき「ヤマブシ」という看板が掲げられていて、ぼくはここのシャッターが開いているところを見たことがないから、もう営業はしていないのだろう。シャッターのほとんどを覆わんばかりに自販機が立ち並んでいて、あと一台、二台ほど自販機が置かれればシャッターは完全に見えなくなってしまいそうだ。自販機の前には作りのしっかりした、しばらく腰を落ち着かせるのにちょうどいい車避けと、コンビニなんかで見かける公衆用灰皿が設置されていて、カジさんはこの場所を「オアシス」と呼んでいるらしかった。
「オズの魔法使いって、ぼくもすごいうろ覚えですけど、ドロシーがかかしやブリキの兵隊?や、ライオン?と、魔法使いになりたくって旅をする話ですよね。ざっくり言うと」
「ああ、うむうむ」
「えっとー。……いや、ほんとうろ覚えなんですけど。たしかあれですよね。それぞれ欲しいものがあって。なんじゃかんじゃあって、最後、ついに相見えた魔法使いに、それぞれ『お前たちはもう、欲しいものを手に入れている……』って言われて、ハッ、と、それでそれぞれ、えーっと」
ぼくたちはほどよく酒が回っていて、すこし声が大きくなっていた。ゼミ終わりに構内でばったり会ったカジさんに誘われて、たこ焼き屋でふたり、雪解け水みたいな冷たさのビールをがぶがぶ飲んだ帰りだった。
「あー。気づいてね、自分のなかにあったものに」ぱち、じじじ、っぱ、すう。カジさんの唇から、唇にさしこまれたり離れたりするタバコから、疎水にかき消されぼくにしか聞こえないあえかな音が鳴る。
「ですです。で、なんか満足して元いた世界に帰るっていう、そういう話……でしたっけ?でしたよね」
「たしかに」
「ですよね」
「そうだねえ……そうだ」カジさんは車避けに両手をついて、グッと夜空を見上げた。「かかしは脳みそ。ブリキは心。ライオンは勇気……」
「だからカジさん、ドロシーに憧れていたって、正確には、まほうつかいになりたかったっていうより、まほうつかいになりたかった人になりたかった、ってことなのでは」
お互いの制作や、ニューホライズンのみんなのことをたこ焼き屋で話していたら、その流れでカジさんが使い古されたノートを見せてくれた。表紙の四隅がすり減ったり破れたりしていて、ページ一枚一枚に細かな折れ目やヨレがあって、汚れや湿度を吸って膨れ上がっているノートの、その最初のほうのページに、カジさんやアダムさんやヨシノさんがニューホライズンを立ち上げた当初に書いた短い作文があった。そこに、「幼いころ、ドロシーに憧れていた。魔法使いになりたかったのだ」と書かれていたのだった。
「……そうかも。そうなのか?そうかも。それってつまりどういうこと?そうかも。でも、そうかも」風見鶏がくるくると揺れ動くように、カジさんは車避けの上で前後左右にくるくる動きながら同じような言葉を繰り返している。「てきとーなこと書いてんなーわたし」
「でも、カジさんらしいですよ」ぼくは自販機で買ったカフェオレを、まだプルタブを開けずに手の中で遊ばせている。「というよりみんなが、なんというか、オズの魔法使いっぽいです。いや、どうかな」
「あはは。っていうかそういうお話の登場人物っぽくはあるよね。オズの魔法使いじゃなくても、なんか、なんだろな、エマとかサガミ、へーことーことか、アダムもヨシノもね、アキもなんか旅の途中の村とかにいそうだし」
「それで言うとぼくはなんですかね」
「三本はブリキでしょう」
「っはは、えー」
「ハートハート。ハートを欲しがるべき三本は」
「ハートかー」ぼくはプルタブを開ける。「エマさんにもこの前似たようなこと言われましたよ」
「あ、そうなの?」
賃走のエコロタクシーがゆっくりぼくたちの前を通過していく。車体上部にちんまりと載っているプロペラを目で追いながらぼくはカフェオレを一口飲んだ。
「カーセックスを何編か見せたんですけど、最初のほうに書いた、サガミさんを登場させたやつを指して、どういうつもりなんだ、って。人には心があるんだよ、って。そんなに強い口調ではなかったけど、でもすこし怒られました。サガミにちゃんと許可はとったのか、って。素材にする側が素材にされる側の実人生を脅かしすぎるな、って。カーセックスってすごい特権的なシチュエーションだから、みたいなことも言われて、それはでもなるほど、と。」
風がまたぼくの髪をつまみ、ぼくの視界でぼやけた黒い線が揺れながら左に流れる。
「脅かしすぎるな、っていうのがエマらしいね。脅かすな、じゃなくて。すぎなかったらいいんだ。あーでも言いそうだなーエマ言いそうだし、三本は三本で、でも、良いと思うけどね。人でなしっぽくてさあ」カジさんは新しいタバコに火をつけた。「エマはエマでらしくて良いし、三本はマイルドに人でなしっぽいところが三本なんだよな。ナメてる感じ。でもそのナメがなんか許されてそうな感じ。許されてそうって思ってる感じ。実際許されてきた感じ。そしてエマがそれを許さない感じ。はは。でもきっと許してもいる感じ」
自転車の乾いた音が近づいてきて、それからすぐにウィンドブレーカーを着た男性がぼくたちの前を立ち漕ぎで走り去っていく。そこから数拍遅れて、同じく立ち漕ぎの女性が丈の長いトレンチコートをはためかせながら走り去っていく。「早いって!」という女性の声。笑っているような咳き込んでいるような男性の声が遠く走り去っていった方向から聞こえてくる。
「そろそろ行こう。トイレ行きたいし、冷えてきた」
カジさんは立ち上がり、ぼくもカフェオレを飲み干して立ち上がる。
車避けのそばに停めていたそれぞれの自転車のハンドルを持って、ぼくたちは並んで、さっきの男女が通り過ぎていった方向とは反対に歩き始める。
「人でなし」
ぼくはカジさんの言葉を繰り返す。
「人でなし、うん。あはは」
カジさんはゆるく笑っている。
ぼくも、カジさんも、みんな、いつかは大学から離れて、ここからも離れて、いままでとはぜんぜん違った人間になったり、そこまでの変化はなかったりしながら生きていく。ぼくは背の低いカジさんの頭頂部を視界の端に感じながら、カジさんにはけして言わない、だれにもわざわざ言ったりはしない想念をピンボールのように全身で弾き転がす。わかってる。わかっています。いや、わからない。けれどわかっている。
こんな時間は永遠には続かない。