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0150「予言」



 稲盛総一朗が市役所を出て駐車場へ向かうと、ひとりの女性が車の前に立っていた。
「どうされましたか?」
 総一朗は訝しみつつ女性に訊ねた。
 この辺りでは見かけない顔だった。
「稲盛総一朗さんですね」
 女性は微動だにせず言葉を発した。
 黒のトレンチコートを羽織っていて、両手をコートのポケットに入れている。なかに着ているのは白い薄手のセーターと黒いスキニーパンツ。風と、風によって斜めに降る細かな雪によって、トレンチコートは旗のように揺れながら点々と白い斑点を増やしていた。この季節に、この場所で着るような服ではない。総一朗は不信感があまりあらわになりすぎないように、慎重に女性を観察した。歳は、おそらく自分より若い。いや、かなり若いかもしれない。それもまた、ここ夕張ではめずらしい。
「そうですが。あなたは?」
 傘を車内に忘れて出た総一朗は、髪に鼻柱に、まつ毛に眉間にちかちかとぶつかる雪に顔をしかめた。
「わたしの名前はランです。バンドウラン」
「ランさん」総一朗は目の前の女性の名前を口に出してみる。
 ランさん。バンドウランさん。
 私はこの人を知らない。はずだ。
「失礼ですが、私に何か……それとも道に迷われましたか? 宿泊先はどちらです?」
 総一朗は当て推量に訊ねてみた。そうでなければ、なんだというのだ。
 女性は無言で首を横に振る。首から下がまったく動いていない。その格好で身体が震えないとはどういうことだ。総一朗は軽く足踏みをした。
「すみません。あなたに、簡潔に、言いたいことがあって、わたしはいま、ここにいます」
 女性は言った。
「すぐに終わります。そして終わったら、あなたはこのことを長く覚えておくことができない。あまりにも不思議な出来事を、人は不思議なまま記憶しておくことができない。それでもわたしは言っておく必要がある。楔としてここに言葉を置くことにしました。その楔はあなたには見えない。それでもいいのです」
 総一朗は女性が言っていることのほとんどを理解できなかった。
 女性は続ける。
「これからそう遅くはないうちに、あなたの周り、あるいはあなたに、ささやかながら大きななにかがやってきます。そしてそのなにかは、もしかしたら、あなたを殺そうとするかもしれない」
「殺す?」総一朗は反射的に繰り返した。「ちょっと、それは……。ランさんでしたか? 突然なんなんですか?」
「わたしからそのなにかをはっきりと説明することはできません」女性は総一朗の混乱を無視したまま声を発し続ける。「あえて言うならそれは、……情報のようなもの、情緒のようなもの、空気のようなもの、想念のようなもの、気持ちや感情、記憶のようなもの、ふよふよと一定の形を成さず天上を覆い続けるもの、あるいは、あなたのまわりを絶えず漂っているもの」
「……それが、私を殺すと」総一朗は半ば諦めた心地で言った。
「殺そうとするかもしれません。そして、殺されそうになるかもしれません」女性は淡々と言った。「それに抗う術は、もしかしたらあまりないのかもしれません」
「なにもかもが、かもしれません、ということなんですね?」ため息混じりに総一朗は応えた。
 女性はうなずいた。
「わたしがあなたに言えることは、これだけです。殺されそうになったとき、殺されないでください。死にそうになったとき、死なないでください」
「まるでなにか、その、クリシェみたいですね」
「わたしがあなたに言えるのは、クリシェのようなことくらいです」女性は言った。「そして、クリシェのようなことをいま、ここで、あなたに言えるのは、わたしくらいしかいないと判断しました」
 ごう、と強く風が吹いた。
「以上です。寒いなか、すみませんでした。わたしは行きます。もう二度と、あなたの前には現れません」
 そして総一朗は車を出して、家に帰り、眠り、起き、職場へ向かい、仕事をこなし、いつもと変わらない日々を続けた。いつもと変わらない日々のなかで、総一朗はランという女性のことと、その女性が自分に発した言葉の端々をときおり思い出す。しかし総一朗はバンドウランという女性がどうやってあの場所から立ち去ったのかを思い出すことができない。総一朗が車に乗り、エンジンを温めているころにはすでに女性の姿はなく、吹き荒ぶ雪によって足跡を追うこともできなかった。そもそも足跡があったのかどうかもわからなかった。そしてときおり思い出すなかで、その出来事は徐々に風と雪が成すノイズのようなイメージに塗りつぶされていき、言葉は言葉としての意味を成す以前のほどけた音の波になり、記憶は総一朗のなかで夢と混濁され、やがて総一朗は、バンドウランと出会ったときのすべてを忘れてしまう。

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