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0140「主人公」



 カホンケースとウーバーイーツのバッグが似ているおかげで職質されなくなった、と貝原かいばらさんはうれしそうに言いながら、ソファ席の隅にカホンケースを降ろした。
「けっこう呼び止められることあって、以前は」
「たしかに、なんかものものしいですもんね。デカいし」
「そうなんです。ちょっと中身見せてもらってもいいですかーって。見せたら見せたで、これなんですか……? って」
 貝原さんとわたしは、駅前の貸しスタジオでの恒例のドラムレッスンを終えて、そのまま歩いてすぐのサイゼリヤに入って夕飯を食べようとしているところだ。さあさあさあ……と言いながら、わたしは貝原さんの前にメニューを滑らせ、わたしもわたしでもう1枚のメニューを開く。
「今日はわたしの奢りです」
「いいんですか」
「いいんです。教えてもらっているのはこっちなのに、スタジオ代はいつも割り勘だし」
「いいんですけどね、それは。でも、じゃあ、お言葉に甘えて」
 わたしは小エビのサラダと大きいほうのデカンタの赤、ほうれん草のソテーとモッツァレラトマトを頼み、貝原さんは熟考のすえにミラノ風ドリアとドリンクバーを注文した。
「もっと頼んでくれたっていいのに」
三矢田みやたさんも三矢田さんで、お腹空きませんか、それ」
「わたしお酒入れると食細くなるんですよねえ。これくらいでじゅうぶん」
 いますよねえ、そういう人。傍らのカホンケースにやんわり寄りかかって貝原さんは微笑んでいる。職場である老人ホームの共用リビングにすこしまえから私物のカホンを置いていて、ときおりレクリエーションで叩いたり、教えたりしているらしかった。すこしめずらしいものだと大正琴なんかもあって、僕は弾けないんですけど、みなさんけっこう活発に練習していますよ。わたしは貝原さんのそういう話を聞くのがすきで、貝原さんも貝原さんで自分の話をするのが嫌いではないらしく、スタジオから出たあとも自販機の前なんかで中学生のようにしばしば立ち話に興じることがあった。
「ちょっと久しぶりに、好きに叩きたくなったんですよね。カホンだけだとすこし音がさみしいですけど、案外それだけでも楽しかったりするんです」
「それで職場から持ってきたんですね」
「そそそ。ドラムとはまたちょっと違ったコツがいるでしょ」
 スタジオで、わたしもすこし叩かせてもらったのだ。
「手ぇじんじんしてちょっとかゆくなりました」
「そうなんですよね。慣れなんですけどね、それも……」
 隣のテーブルに人が座って、貝原さんの様子が微妙に変化したのを、おや? と思いつつもわたしはスルーして、ほうれん草やトマトをつまみつつ、赤ワインをすいすい飲んでいった。貝原さんはドリンクバーのジンジャエールをちびりと飲み、さあご飯の時間ですよ、食事に集中集中、といった感じで言葉すくなにスプーンをドリアにさしこみ、口に運んでいる。
「お知り合いですか?」隣の人がトイレに立ったタイミングを見計らって、視線をちらっと隣席にやりながらわたしは貝原さんに訊ねる。
「え? いや」貝原さんはドリアの乗ったスプーンを空中で止めて、気の抜けた顔で答えた。「はは。いや。たぶん違います。ちょっとびっくりしただけっていうか。……あとで話しますね」
 隣の人は若鶏のディアボラ風とプチフォッカを注文していた。なにその組み合わせ、とすこし愉快な気持ちになって、わたしは貝原さんに断ってからデカンタをお代わりする。ドリアを早々と平らげた貝原さんは、ドリンクバーから紅茶を持ってきてちびりちびりと味わっている。視界の端でぼんやり捉えた情報から推測するに、隣の人はおそらく4〜50代くらいの女性で、鶏肉を細かく切ってプチフォッカでつまむように取り、優雅に口に運んでいるようだった。なるほど、今度試そう……、などと内心ニヤつきつつ、わたしはわたしでサラダに乗った小エビをちまちまと酒のアテにしている。
 隣の人は思いのほかすぐに店を出て行った。
「で、なんだったんですか?」最後の小エビを大切に味わってから、わたしは心なしかホッとした様子の貝原さんに言った。
「いやあ。……へへ。いやね、さっきまで隣の席にいた方が、僕の母に似ていたもので」
「え」意外な答えにへんな声が出る。「似ていただけですか」
「似ていただけですね。すこし昔、いまよりもうすこし若いころの母に似ていたので」貝原さんはもうほとんど中身のないカップを両手で包むように持ち続けている。「だからすこし、動揺しました」
「いまよりってことは、ご存命ではあるんですね?」
「ですね。そのはずです」
 はっきりしない答えにわたしはなにかを察して、すこし黙る。
「疎遠なんですか」
 でも結局訊ねてしまうのがわたしでもある。
「そうですねえ。最後に会ったのはいつだったかな……」貝原さんは口をぽかんと開け、数秒、わたしの頭上あたりの空間に目線を這わせてから、大事そうに持っていたカップをテーブルに置いた。「僕もすこし飲もうかな。三矢田さんがまだ飲めるなら、ちいさいほうのデカンタシェアしませんか」
「え、いいですけど。貝原さんお酒大丈夫なんですか」
「ワインをグラスで1杯2杯程度なら、ぶっ倒れたりすることはありません。白でもいいですか」
「もちろん。いいですよ」
 そうして注文したデカンタが届き、控えめにグラスに注いだ白ワインを一口なめてから、貝原さんは話し始めた。
「僕の両親は新興宗教の信者なんです。母の家系は祖母の代からで、2世信者。父はそんな母を辞めさせようと一緒に集会所のようなところに通っているうちに、ミイラ取りがミイラになる形で、信者になりました。だから僕は、3世信者ということになりますね」
 わたしは白ワインを飲み飲み、頷いたりしながら貝原さんの神妙な顔を見ている。
「僕には4つ下の妹がいます。妹とも、もう疎遠なのですが……。精神的な距離感は、幼いころから、ずっと疎遠でした。仲が良いとか悪いとかではなく、単にお互い話すことが何もない、といった感じでした。妹は、これは、長子ではないものの特権といいますか、密かに僕のこと、僕が歩む自分よりすこし先の人生のことを、よくよく観察していたんでしょうね。妹はその新興宗教、……世教、と俗に言うのですが」
「ああ! 知ってます知ってます」わたしはグラスを置いて、追加でちゃっかり頼んだポップコーンシュリンプをつまんだ。「ここらへん、駅前なんかでもたまに勧誘したりしてますよね。最近は見かけないけど……」
 貝原さんは頷いた。「妹は、両親や世教とは常に適度な距離感を保っていました。おそらく、心から世教を信じたこともなかったでしょう。親の手前、信者として振る舞い、母や父、僕と一緒に集会所へ行くこともありましたが、慎重に頻度を抑え、すこしずつ、すこしずつ、10年、20年、時間をかけて、籍だけは入れているけれど集会所へ通ったりはしない、そういう状態になっていったように思います」
「貝原さんは……じゃあ、」わたしは言った。「貝原さんは……?」
「僕は。……自分で言うのもあれですが、……そして、三矢田さんから見た僕がそうかはわかりませんが、わりかし根が素直な人間でして」
「そうだと思います」グラスに入っていたワインを一息に飲み干してわたしは繰り返した。「貝原さんは、はい、そうだと思いますね、わかりませんけど、かなり」
「ふふ。ありがとう、ございます、なのかな」貝原さんは目を細めて自分のグラスを見ている。「僕は当時、だいたい物心つきはじめたころから中学を卒業するちょっと前までかな、けっこう素直に信者で。信じていたんですね。母が通い、父が通い、信じ、祈りを捧げているという、その、行為や場所、人、神やそういった目に見えない、なにか。運命みたいなもの。真実みたいなもの。霊魂や輪廻転生のようなもの。そういう、あらかたすべてのものを。素直に。これ、僕も食べていいですか」
「ああ、それはもう、もちろんぜひぜひ」わたしはポップコーンシュリンプの入った皿を貝原さんの方へスススと押す。
「話がすこし逸れますが、世教には、太鼓部という、主に小学生から高校、大学生くらいの年齢の信者が任意で参加する、部活動のようなものがあったんです」貝原さんはポップコーンシュリンプを一口齧り、ん、これおいしいですね、と言いたげにわたしに向かってわずかに眉を上げた。「僕は10歳のころから太鼓部に入っていて、14、5歳あたりまでかなり熱心に参加していました。学校の部活動よりよっぽど真剣でしたね。僕が大学の軽音サークルでドラムを始めて、いまもこうして趣味として続けているのも、実は大元のきっかけは世教なんです」
「ははあ……」わたしはワインを飲む手を止めて貝原さんの陰影の薄い顔をじっと見ていた。なんとなく、いまこれ以上アルコールを入れたらいけないような気がした。「なるほど……。ちょ、ちょっとトイレ、一瞬行ってきていいですか。お冷やも持ってきます」
「どうぞどうぞ」
 わたしは足早にトイレへ向かい、そそくさと小用を済ませ、両手にお冷やの入ったグラスを持って席に戻った。
「それで」それぞれの前にグラスを置いてからわたしは言う。「ええとそれで。でも貝原さんは、いまはもう、その世教は抜けてらっしゃる……?」
「ですね」貝原さんはお冷やをこくこくと飲んで言った。「15歳。中学3年の、冬でしたね。世教をむりくり抜けて、それ以降、もう集会所には行っていません。太鼓の撥もそれ以来握っていないなあ」
「貝原さんをそうさせた、そう思わせた、なにかこう……気づいたきっかけというか、なにかあったんですか」
「それはですね」貝原さんは不意ににっこりと笑った。「本なんです」
「本」わたしは繰り返した。
「本」貝原さんも繰り返す。「僕は幼いころからとにかく本を読むこどもでした。本が好きになるきっかけはなんだったのかな。それはあまり覚えていないのですが、とにかく、本という物と、その中に書かれているもの、それを見たり、読んだりして、あれこれ空想する時間が、僕は昔から大好きだった」
「貝原さんは昔から貝原さんだったんだなあ」そういえばこの人は、いまの職場で働く前は本屋の店主だったのだ。
「古典文学や、海外文学を読むようになったのはずいぶん後、高校を出て、大学生になったあたりからでしたが、とにかく小説は、たくさん読んでいた」貝原さんはお冷やを飲み干し、再びワイングラスに手を伸ばした。わたしはデカンタを持って、貝原さんのグラスに白ワインをすこしだけ注ぐ。「ありがとう。それであるとき、……中学1年の終わり、いや2年の終わりだったかな。あるとき、気がついたんです。僕がいままで読んできたどんな小説にも、どんな物語にも、世教の先達者は出てこないぞ、って。主人公が先達者の物語を、だれも書いていないぞ。先達者が物語の主人公として描かれたことなんて、一度もないぞ、って」
「先達者?」
 貝原さんはわたしの目を見た。「信者のことです。世教は信者のことをそう呼びます」そしてポップコーンシュリンプをつまんで、お互いの目の高さに掲げた。「ふふ。僕はこういったものも、こどものころはあまり食べることができなかった。世教の教えでね」
 わたしの視界で、掲げられたポップコーンシュリンプと、貝原さんの歳にしてはめずらしい総銀の毛髪と、そのさらに後ろのクリーム色の壁面それぞれへのピントがすこしずつズレていき、すべてが遠ざかっていくような感覚に陥った。
「実際、世教の教えには、助けられたこともあったんですよ」ポップコーンシュリンプを口に含み、わたしの視界を読み取ったかのように貝原さんは言った。「この髪の毛はね、幼いころからこの色だったんです。おかげでたくさんいじめられました。でも、すべては因果だと、父や母、世教の教えは言っていた。仕方のないことなのだと。そしてそれは、世が僕に与える、喜ぶべき、償うべき罪と罰なのだと」
「貝原さん。貝原さんは、……そうか」不意に視界が戻って、わたしは言った。
「もちろん、いまは信じていませんよ。念のため言いますが。……そして、世教を抜けたあとの実家での日々は、端的に言って地獄でした。でももう、だからと言って、過去を悔やんだり、苛んだり、父や母を否定したり、恨んだり、責めたり、自分とは違う境遇の人間を羨んだり、妬んだり、そういう時期……季節はね、もう過ぎた、ぼくは過ぎたんです。三矢田さん、」貝原さんはなぜかにやにやしている。「それで僕は、あの場所にブックス・ホークアイを作って、そして三矢田さんはいっとき、あの場所をお客さんとして利用してくれて、それからホークアイは潰れて、僕たちはいま、ここにいるんですよ」
「貝原さん」
「ふふ。なんだか話しすぎちゃいましたね。隣の席に座った、昔の母によく似た人に動揺したという、それだけのことで」
 貝原さんは手を伸ばして、いまは無人の隣のテーブルの縁をトントンと叩いた。すこし酒が回っているのかもしれない。
「貝原さんは……」
 わたしは言いかけて、ためらった。わたしが口にするには気取りすぎた言い回しのような気がしたし、貝原さんよりおそらく酒に強いとはいえ、わたしもわたしでほどよく酔っ払っている自覚があった。
 けれど、わたしは言うことにした。
「貝原さんは」
「はい」
「貝原さんは、主人公になったんですね。先達者でいることをやめて、物語の主人公として生きることを、選んだんですね」

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