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0101「木蓮」



 最初は、2階建てのアパートの1階。
 たしか104号室だった。道路側の角部屋で、玄関を出て数歩で車道に出る。一方通行だったはずだ。いや、違ったか。いや、そうだったか。すくなくともそれくらい、道幅はせまかった。というより、1車線にしては中途半端に広かった。そういう道の途中に、エスポワール一乗寺は立っていた。道を挟んだ向かいには小さな酒屋があって、小さいけれど古びれてはいなかった。町の酒屋さん、といった風情の個人商店にしてはめずらしく、日付が変わるころまで店を開けていたので、私はそこでよく、発泡酒やチーズ、安いチリワインを買って、行くあてもなくふらふらと気のすむまで道を歩いて、戻って、敷きっぱなしの布団の上で、眠たくなるまでお酒を飲んだりしていた。19歳から22歳の4年間、つまり、大学生活のほとんどを、そのアパートとアパートの周辺で過ごした。
 築浅で、きれいな物件だった。実家のリビングの、ときおりピミコピミコココオオ……と不穏な駆動音を発するようになったデスクトップパソコンの前に毎日のように座り、はじめての物件探しでなにを見てなにに警戒すればいいのかまったくわかっていなかった私が、雑な検索としらみつぶしの閲覧の果てに見つけた場所だった。トイレの写真がやけに綺麗で、賃料も、すこし高いが妥当な気がした。まあ高くても、結局それを払うのは、仕送りをくれる母であり父なのだ。不動産屋にメールを打ち、1ヶ月後、休日を利用して夜行バスに乗り、その部屋を見に行った。はじめての内覧。きれいだな、と思った。実家のデスクトップパソコンに表示された景色とそう大差ないその部屋をぐるり見回して、ここがいいのかもしれない、と漠然と思った。すぐ隣の建物が邪魔して日当たりは悪いけれど、ベランダはそこそこの広さがあって、悪くないな、と思った。ベランダの外を毛並みの悪い黒猫が横切った。悪くない。ここがいいです。ここなのかもです。ここにしたいと思います。
 大学を卒業して、保険会社に就職した。入社後早々に大分の支社に配属されて、自分は大阪や東京近郊でしばらくは働くことになるのだろう、と高をくくっていた私は地方配属の辞令に一瞬戸惑ったが、九州地方には足を踏み入れたことがなかったし、大分には以前から多少の興味はあったから、気持ちは不思議と軽やかだった。地獄めぐり、地獄めぐり、別府べっぷべっぷっぷ〜、などと口ずさみながら、缶ビールを飲み飲み、ノートパソコンで物件サイトを検索する日々が続いた。社宅に入るのは気が進まなかった。家賃分が全額支給されなかったとしても、すきな部屋ですきなように生活しよう、と考えていた。いくつかの物件に目星をつけ、アポを取り、週末旅行気分で内覧へ行った。ここはパッと見広いけど、異様に天井が低くて気が滅入りそう。1階でもべつにいいけど、ここはベランダが路上からあまりにも丸見え。トイレが洋室の一番奥にあるのは、便利な気もするけどやっぱりちょっとな。ここは、窓が多いのはいいなと思っていたけれど、壁面がほとんどないから家具を置きづらいな。不動産屋をはしごして、やはり社宅だろうか、でもなあ、と悩みつつ、時間的にその日最後の内覧を終えて不動産屋の車に揺られているとき、あ、と声が出た。運転席に声をかけ、通り過ぎたばかりの十字路までUターンして、路地に入ってもらう。古めかしい不動産屋の、私より一回りほど年上に見える担当者の男性は優しくて、嫌な顔ひとつせずに従ってくれた。陽は暮れかけていて、空は濃い橙に染まっていた。
 このとき感じたことを、言葉にするのはむずかしい。後部座席の車窓から通り過ぎる風景を眺めていて、その十字路が視界に入った瞬間、不意に、あ、と思ったのだ。まったく関係のない記憶と記憶、つながりようのない場所と場所、いまの私が見る景色、時間、空気、両親や友達のこと、かつてつきあっていた人たちのこと、そういったとりどりの要素が、でたらめにぶつかり合って霊的とも動物的とも言える直感と予感のようなざわめきを私にもたらしたのだった。
 永野サンホーム。その路地の先にあった3階建てのアパートの、301号室で3年間暮らした。上から見るとI字型の、羊羹みたいな形の建物を途中で大幅に増築してL字型にした造りのアパートになっていて、共用廊下の途中にパッチワークのような接合面があり、元からあったほうと増築されたほうで、玄関扉やインターホンのデザインも間取りの構成も居住者の雰囲気も違っていた。増築されたほうの部屋には幼稚園から小学生ほどの年齢のこどもがいる核家族や、結婚しているのか同棲しているだけなのか図りかねる若い女性とおそらく海外にルーツのある男性のふたり組、なにやら税金をたくさん納めていそうな雰囲気が服装や容姿から滲み出ている30代半ばほどの男性、などの面々が住んでいて、元からあったほうの部屋には学生もしくはフリーターのような風貌の男の子、冬以外の季節はいつも玄関の扉を全開にしていてたまにいがらっぽい咳払いが珠暖簾越しに聴こえてくるおじいちゃん、重さで傾いてしまいそうな密度のベランダ菜園を日々世話している40代ほどの女性、そして私が住んでいた。L字の縦線と横線がぶつかる角のあたりがアパートの入口になっていて、道路に面していたのは縦線の左側だったから、敷地の内部はアパートのベランダと隣家に囲まれてちょっとした中庭のようになっていた。中庭にはクスノキが一本植わっていて、私の部屋がある3階部分よりクスノキのほうがすこしだけ背が高かったから、晴れた日にカーテンを開け放つと枝葉の形にくり抜かれた陽の光が部屋に入ってきて、さわさわとにぎやかに揺れるのだった。ずいぶんにぎやかな場所だった。気の合う友人もできなかったし、地獄めぐり地獄めぐり、とかつて口ずさんでいたわりには出不精な3年間だったけれど、不思議とさみしくはなかった。この光があれば、大丈夫。植物の気分がすこしだけわかったような気がした。
 大阪への配属辞令が下りて、そこからの数年間は、あまり覚えていない。覚えていたくない、と言ったほうが近いのかもしれない。私は会社を辞めて、千葉の実家へと帰った。光が怖くなってしまった。実家のデスクトップパソコンはもうとっくに処分されていて、リビングの隅に置かれたタブレットには埃が被っていた。よく眠ったし、眠れなかった。寝ていても起きていても気絶しているような日々をやり過ごすように生きた。その日々のさなか、九州で大きな地震が起こった。
 熊本で、大分で、地面が揺れていた。縦に横に激しく揺れる定点カメラ。潰れた木造家屋。崩れた石垣と歪んだ城。タブレットを持って、カーテンを閉め切った自室で、何度も何枚も映像を写真を見て、記事を読んだ。数日間、数週間、タブレットから光景を追い続けて、私は外へ出た。日中に家から出るのはずいぶん久しぶりだった。歩いて近所のコンビニへ向かって、缶ビールを買って、タウンワークを手にとって家へ帰った。缶ビールを飲みながら、タウンワークの紙面を1ページ1ページ時間をかけて眺めた。静かだった。実家から自転車で数分のところにある梨園がアルバイト募集を出していた。電話をかけて、翌日の昼に面接をすることになった。そして私は朝まで15時間ほど眠った。目が覚めてからお風呂に入り、久しぶりに眉毛を整えた。私はなぜか、すこしだけ元気になっていた。
 だだっ広い梨園で、筆に付着させた花粉をめしべにつけて受粉させていく。人の目鼻ほどの位置に咲いた梨の花と花の間を歩き回りながら、私は別府で内覧したやけに天井の低い古びたマンションの一室を思い出していた。そして永野サンホームのことを思い出していた。あの日の後部座席の車窓から見えた風景を思い出していた。梨園の仕事は季節ごとに短期のバイト募集をかける上に、天候によって出勤日数が左右される。私は梨園の合間合間に近所の銭湯の夜間清掃アルバイトに行き、その梨園で働き続けた。
 2年後、私は札幌にいた。梨園のアルバイトで知り合った年下の女の子が札幌の出身で、後継者のいない地元の銭湯を継ぐことになり、彼女を追いかけるような形で引っ越しを決めた。梨園のアルバイトで知り合った、と言っても彼女は梨園で働いていたわけではなく、私が夜間清掃に行っていた近所の銭湯に住み込みで働いていて、彼女は梨園から毎年梨を大量に仕入れて番台で売り捌いていた。不思議と風呂上がりにみんな買うんだよね、と彼女は笑って言っていた。だはは、と力強く笑う人だった。湯に浸かるためというより彼女に会いに行くために私は銭湯へ通うようになり、清掃の人手が足りていない、と嘆く彼女に、じゃあ私が、と立候補する形で夜間清掃をするようになったのだった。
 私の母の実家が札幌にあった。彼女が札幌へと帰るタイミングと重なるようにして、母方の祖父母が揃って養老施設に入ることになり、私は家財整理も兼ねて母と共に札幌へ向かった。彼女はいつの間にか私の母とも仲良くなっていて、札幌駅で合流した私たちは彼女の運転する車に乗って、3人で母の実家まで向かった。母は祖父母とあまり関係が良好ではなく、といって険悪なわけでもなく、なんとなく幼少期からウマが合わないと双方が思い続けてきたようで、大学進学で東京へ出て、そのまま関東で暮らし続けて父と結婚してからは盆暮れ正月に短い電話をする程度の繋がりになっていたから、私も母方の祖父母のことはほとんどなにも知らなかった。物心つくかつかないかのころに母に連れられて何度か札幌に来たことがあるらしかったが、私はまったく覚えていなかった。石山通をひたすら南下して、札幌市電の圏外へ。北の沢川とぶつかるあたりで右折してなだらかな坂道を上がり、住宅地へと入っていく。ここらへんも、変わらないようで変わっていくね。ああ知らない、知らない。ここも新しい建物がちらほらある。助手席で母がつぶやいた。私は後部座席の車窓から、徐々に近づいていく山肌や遠くの街並みを眺めながら母と彼女の会話を聴いていた。
 あ、と声が出た。
 え、なんですか、と彼女は言って、あっ、と母は言った。ごめんごめんぼーっとしてた、さっきの路地、戻って右に入ってもらえる? 続けて母は言い、通り過ぎたばかりのY字路まで車はUターンした。実際は2〜3歳の差なのだが、小柄な体型と、ほどよい肉付きのおぼこい顔立ちによって私より一回りほど年下に見える彼女は優しくて、嫌な顔ひとつせずに従ってくれた。陽は昇りきっていて、空は濃い青に染まっていた。
 あんた、覚えてたの。さっき、あ、って。車から降りたあと、母は私に言ったが、覚えてないよ、とだけ応えて私は大きく伸びをした。うまく言葉にすることができなかった。
 その路地の先にあった母方の実家、2階建4LDKの一軒家で、私は暮らした。庭には白木蓮が一本植わっていて、2階のベランダより白木蓮のほうが背が高かったから、晴れた日にカーテンを開け放つと枝葉の形にくり抜かれた陽の光が部屋に入ってきて、風に吹かれて葉が揺れると、紙をくしゃくしゃに丸めているようなざらついた音とともに、陽の光もにぎやかに揺れるのだった。白木蓮は花が咲くと木全体が大きな炎のようになり、近くで見たり触れたりすると花弁も葉っぱも肉厚でごわごわしていて、なんだかとても動物的な愛おしさのある植物だった。私は資格を取り、彼女の継いだ銭湯で、ボイラー技士として働き始めた。
 ずいぶんにぎやかな場所だった。
 私はそこで暮らし続けた。

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