容子ばあちゃんの話がしたい
最近トゲトゲした内容を投稿していたので、私の世界一可愛いひいおばあちゃんの話をしようと思う。
ひいおばあちゃんは98歳。まじで生きる化石って感じ。
ひいおばあちゃんが好きなのは、お裁縫と私のお母さんと、可愛いひ孫たち。そう私のことが大好き。
私たちは"おばあちゃん"と"ひいおばあちゃん"のことを分けて呼ぶために、ひいおばあちゃんのことは容子ばあちゃんって呼んでる。
小さい頃私は牛乳が大好きだったから、容子ばあちゃんは毎週水曜日に牛乳瓶を7本頼んだ。
1日1本の約束なのに2本とか飲んで、最終日に牛乳がなくなる。
床でジタバタしながら牛乳がないって泣くの私、笑
牛乳を頼んだらポイントが貯まるらしく、ポイントはいろんな景品と交換できた。ヨーグルトメーカーとか、高いお肉に交換した。
小学校に上がって給食で牛乳が出るようになると、家で飲む量が少し減った。5本くらいになったけど、今度は容子ばあちゃん用のカルシウム増量の瓶が1本増えた。そっちはカルピスみたいな味がして甘いから、こっそり譲ってもらったりして怒られた。
高校生になると牛乳は3本になった。もう1週間じゃ飲みきれなくなって賞味期限ギリギリにシチューになってた。
5年前の高校3年生の時、久しぶりにポイントを交換した。一番高い景品だった包丁セットは、私の一人暮らしの相棒になった。
2年前に容子ばあちゃんは施設に入った。
そしてついに牛乳は頼まれなくなった。
お裁縫が得意だから、ボタンが取れたり膝が破けたりしたらいつも容子ばあちゃんのところに持っていった。
幼稚園生の時私とお姉ちゃんに色違いのワンピースを作ってくれた。
お姉ちゃんが水色で私がピンクのワンピース。
それを着て私が生まれたての妹にミルクをあげてた。
お裁縫をするとき容子ばあちゃんは私たちを近くに寄せようとしなかった。
容子ばあちゃんは針が私たちの指に刺さっるのをすごく怖がってた。
全部の針はお裁縫箱に番号をつけられてぴっちりとしまわれていた。
容子ばあちゃんのお裁縫に憧れて、幼稚園のお仕事でたくさん縫い物の練習をした。
小学校5年生の容子ばあちゃんからの誕生日プレゼントはミシンだった。
中学生の頃好きな男の子に名前の刺繍をしたお守りをあげた。
高校生の頃留学で離れ離れになる部活のチームメイトにコートネームの刺繍を入れたタオルを渡した。
お裁縫は愛だなと今ならわかる。
容子ばあちゃんのミシンは今私の一人暮らしの家で活躍している。
容子ばあちゃんが尊敬する人は私のお母さんと、容子ばあちゃんのお母さんらしい。
容子ばあちゃんは私のお母さんが大好き。
こんなにいいお嫁さんがうちに来てくれるなんてって、施設の人にいつも自慢してる。
お母さんは確かにすごいけど、こんなにもお母さんを大切にしてくれる容子ばあちゃんも本当にすごいんだよ。
容子ばあちゃんは私たちのことも施設の人に自慢してる。
私たちの顔は施設の人全員に認知されている。
容子ばあちゃんの部屋一面に私たちの写真が、しかもA3くらいのサイズで貼られているから。笑
容子ばあちゃんのお母さん、つまり私のひいひいおばあちゃんは私が1歳の頃まで生きていた。長寿の家系なんかな。
いつも背筋が伸びていて、決して怒らない人だったらしい。
容子ばあちゃんが、1度だけひいひいおばあちゃんが亡くなる時の話をしたことがある。
病気で苦しくて痛いはずなのに、亡くなる最後まで笑顔でいたと話をしてくれた。
そのとき初めて容子ばあちゃんが泣くのを見た。
2年前容子ばあちゃんの妹が亡くなった。
ついにひとりぼっちになっちゃった。と容子ばあちゃんが言った。
一緒に生きてきた人がいなくなっていくのって、一体どんな気持ちなんだろう。
容子ばあちゃんは私が電話に出れないと必ず留守番電話を残してくれる。
電話の音質は普通なのに、留守番電話になるとなぜかいつも水中にいるみたいな声になる。
私はそれをいつも解読する。
でも必ずはっきりわかる言葉がある。
容子ばあちゃんは最後に必ず「みきちゃん大好きだよ」って言う。
私はいつも留守番電話を3回以上聞く。
最近容子ばあちゃんのことを考えると涙が出てきてしまう。
どうしてなんだろう。
電話をするときも勝手に涙が出てきてしまう。
だから全然電話をかけれない。困ったものだ。
今もこの文章を書きながら、涙が出そうになっている。
この先も、容子ばあちゃんがこの世からいなくなってしまったとしても、私は一生容子ばあちゃんを思いながら涙を流したい。
私はずっと容子ばあちゃんの大好きなみきちゃんでいたいし
私はずっと容子ばあちゃんのことが大好きな自分でいたい。