KANくんバイバイまたね
KANくんにまつわる話をいろんな人がしている。仲の良いミュージシャン、仕事仲間、ファン、「愛は勝つ」しか知らなかったけど……という人まで、突然の報せに驚き、悲しみ、KANくんへの愛とリスペクトを伝え合っている。
私もそうしたい。そうしたいのは山々だけれど、あまりにも重たいその事実をかかえきれないでいるのと、そこで素直に言葉を繰り出そうとすると、愛とリスペクトだけでは済まないもろもろが心の中を行ったり来たりして、どうにもまとまらない。
87年のデビュー少し前あたりから、雑誌やラジオで数えきれないほどたくさんの仕事をしてきました。KANくん独自の音楽理念やものの捉え方・考え方を取材し続ける中で、あるいは、取材以外の場所での言動も含めて、「なーんでそういうこと言うの?」「そんなこと言わないでよ」「そんなこと言っちゃだめ」と、これはツッコミというか、ただの相槌みたいなものでもあるのだけれど、眉をひそめたり首をかしげたりする場面が少なくなかった。
それが楽しかった。KANくんもどこかおもしろがって、わざと変なことを言ってるんだなというのもわかっていた。
振り返れば、長いお付き合いだった。でも今はそれがとても短く感じる、早すぎるお別れがやってきてしまいました。
私が発行しているラッキーラクーン(以下、LR)は今年、創刊20周年を迎え、数えて50号という一つの区切りを迎えた。そこで真っ先に療養中のKANくんに何らかの形で参加していただけないかとメールしたところ、「私は(この号に)もっとも参加しなければならないメンバーの一人だと思っています」と快諾してくれて、創刊号からの関わりを書いてくれることになったのが、7月のこと。
そこからは、49号分のLR+別冊におけるKANくんが登場するページの内容をまとめた資料を作ってはKANくんに送る日々。パリコラ、帰ってきたパリコラ、ひっぱってパリコラ、インタビュー、対談、エッセイ……毎号、あらゆるテーマで参加してくれていたことに改めて感謝しながら、ときどきクスッと笑いながら、同時にここにこそLRの歴史があるような気にもなりながら。
膨大な資料になりました。いつかお見せできる機会があったらいいなと思います。
10月、KANくんはパリへ。この時期にそうすることの説明と一緒に、「LR50で『パリコラ』を振りかぶるにあたり、"で、結局パリってなんなのよ?"という原点に議題を戻そうと思っていたところ」だったとメールには書かれていました。
そしてパリから帰国してしばらく経ったころ、締切日の確認と、同じ号の忌野清志郎さんのページ『今週のキヨシロー』で、《ラッキーラクーンナイト2》の打ち上げでの例の一件を書いてもいいかどうかを相談するメールを送った。
電話がかかってきた。
パリというとフレンチのフルコースとかを連想する人が多いかもしれないけど、実際は家庭料理を食べてみんな普通に暮らしているのだから、自身の目で見た、コレがパリだ、パリコレだ、みたいな内容のコラムにしようと思っている、と。
清志郎さんとのことはもちろん書いてくれて構わないし、あの夜に誕生した名言「俺に締めさせろ」にまつわるその後のエピソードも教えてくれて、それも書いておいてくれ、と。
あとは、病院の看護師さんがみんなきれいなこととか、とあるミュージシャンの作品についてどうも納得がいかないから今度本人に会ったら言おうと思ってるとか、短い時間だったけれど、いつものように「ま〜たそんなこと言う〜」と合いの手を入れながら楽しく喋ることができた。
大体の締切日も決めて、電話を切った。
数日後、また電話がかかってきた。力のない声で「締切に間に合わないかもしれない」と言うので、ここで、じゃあ、今回は掲載を諦めますと私のほうから言ったほうがKANくんとしては気が楽ですかと訊くと、「ううん、がんばってみる」と言ってくれました。
負担はかけたくなかったけど、一度約束したことを簡単に反故にするKANくんではないこともわかっていたので、原稿を待つことにした。
翌々日、「やっぱり書けそうもないです。ごめんなさい」との電話。悔しがる様子が痛いほど伝わってきたけれど、わかりました、と、すぐに返した。でも、今までの記事や写真で再構成したページを作らせてもらいたいと言うと、「はい」という言葉に続けて「お世話になりました」という小さな声が聞こえた気がした。聞こえてないふりをした。するともう一度「お世話になりました」と言うので、「そんなこと言わないでよ」と、いつもより強めに言ってしまった。
私がいちばん泣いたのはあの電話を切ったあとだったかもしれない。
その後、急遽、昔のデータを引っ張りだしてきて、8ページ分の構成にとりかかった。大阪でラジオ収録をして夜遅く帰ってきてからも夢中になって作業した。泣いてる暇などない。KANくんに感謝を伝えたい。
最初の見開きは、LR初期にKANくんが撮ってくれた、パリの街角の何箇所かにあるという小さなメリーゴーラウンドの一つ。当時、まだ出会っていないKANくんと和田唱くんの二人が、好きな音楽や醸しだす雰囲気にどうも似通ったものを感じていて、TRICERATOPSの「CAROUSEL」(アルバム『LICKS & ROCKS』)という曲にちなんで、KANくんに写真を撮ってもらい、誌面上での共演?を果たしたのだった。
その二人が実際に出会い、あんなに仲良くなるまでの経過をLRとして見せてもらってきたので、一つの記念碑的な写真として掲載。
それからパイロットとスチュワーデス(2形態)、カブレルズ、コックサンズ、もちろんキュイジーヌコラム『パリコラ』から膨大な数の料理写真を選び、並べ、デザイナーさんに提出。作ってもらったレイアウトの全体のテイスト、タイトルロゴ、写真の大きさやキャプションの位置……などなど(まるでかつてのKANくんのように)何回も修正をお願いし、自分の文章もちょこちょこと書き直したりして。「けして遠くない明日に、またお会いしましょう」と結んで、やっとできたページのデータを確認してもらうためKANくんに送ったのが、入稿日の3日前。
その2日後(11月3日)、確認したという返信。選んだ料理のバランスがいいとお褒めの言葉をいただきつつ修正すべき数点を指摘された。フランス語のスペルや、料理の工程に触れるところでうっかり「塩ひとつかみ」と書いてしまっていたところ「塩ひとつまみ」のほうがいいと思う、など、実に的確。ホントだ、塩ひとつかみなんて、お相撲さんじゃないんだから。
無事に入稿して、印刷所から送られてきた色校紙の最終的なチェックを終えて、「またお会い」する気満々のまま、11月13日に校了。
その日の夜、KANくんの元マネージャーさんから電話をいただいた。その着信を見た時点で用件を察することができた。
お通夜にもお葬式にも行けなかった。私にしてはめずらしくギチギチに用件が詰まっていた週で、広島県から東京に行くのはどうしても無理だった。お葬式の夜、菅原龍平くんが電話をくれて、だいぶ救われた。
公式発表があり、ああ、とうとうファンのみなさんもこのことを知ってしまうんだなと思ったら、またキリキリと胸が痛んだ。そんな折に早速テレビの某情報番組から、LRのオンラインショップの問い合わせフォームに「KANさんについてお話を聞かせてください」と取材のオファーがあった。何日の何時からと一方的な時間指定をしてきたり、同時にXで相互フォローしている方のところにも私の連絡先を聞いてきたそうだ。もちろんお断りしたけれど、あのタイミングで半ば横暴に人の心を逆撫でる感じ、すごく嫌だったな。
友達や、昔お仕事をご一緒していた人からは、心配の連絡をいただいた。「だいじょぶです!」と強がっていると、自然に背筋がピンとなって、なぜか本当に大丈夫なような気持ちになった。みなさん、ありがとう。
KANくんのこと、ラジオでもちゃんと話していこうと思った。素敵だったりやさしかったり天才だったりするところはいろぉ〜んな人が話したり書いたりしているので、私は文句を言っていこうかな。そりゃもう面倒臭い人で〜、とか。まぁ、これはKANくん本人にもいつも言っていたことだけど。
そう、KANくんがすごいのは、そういうことを言わせてくれる度量があるところ。もう全部わかってる。相手が自分をどう思ってるか。こっちがどれだけ憎らしいことを言おうと嫌っているわけではないことも。
なぜならKANくんもいつも本当のことしか言わないから。それはダメとか違うとかやめようとか言われて凹んだことも少なくないけど、嬉しいことをさりげなく言ってくれることもありましたっけ。
ライターとしての私をもっとも認めてくれた人だったと思う。『ぼけつバリほり』『KAN in the BOOK 他力本願独立独歩33年の軌跡』『きむらの和歌詞』の3冊を作らせてくれてありがとう。作ってるときは「もぉっ!」「う〜む!」と唸っていた記憶しかないけど、作らせてもらえてよかった。『KAN in the BOOK』制作終盤、すでに作業的に疲れが溜まっていて楽器のページの写真と名前とキャプションを何度も何度も間違えて、KANくんに何度も何度も指摘されて、できない自分が悪いんだけど、はぁ、あれは今思い出しても冷や汗が出そうになる。KANくんもイライラしただろうけど、メールの文面はいつも冷静だったな。
『きむらの和歌詞』では、歌詞の解説をどなたか音楽評論家さんに書いていただこうと提案したところ「自分で書けば?」と言ってもらったのだけど、その時点では、あのクオリティの高い歌詞に対峙できるような解説など書ける気がしなかった。でも歌詞のページを編集していくうちに感じることが多々あったので、それを書いてみることにした。何と言ってもこの書籍は著作権問題との格闘だったと言える中、一切、歌詞を引用せずに解説文を書き切り、内容もKANくんに納得してもらえて、結果的には深い安堵と嬉しさがありました。
いやぁ、もう、いろんなことを含めて、ありがとう。これに尽きる。KANくんからの無理めな注文に応えるべく頑張ることができたので、あの痛みとトキメキが同居したドキドキを忘れずに、私はこれからも本や雑誌を魂を込めて作っていきたいと思います。
KANくんが亡くなったことによって世間では再評価の兆しがあるけれど、遅いよね。生きているうちにあの凄さを知って、称えて、さらなる高みをKANくんには目指してほしかった。その期待に十分に応えられる人だったから。
残念です。寂しいし悲しいしまたライブに行きたいです。でも、KANくんのほうがもっとそう思っているはずだから、あんまり弱音は吐かないでおこう。
遺してくれた音楽がある。いい曲がいっぱいある。またラジオでかけるね。
ミュージシャンだったらカバーしたりもできるんだけど。……あ、そうだ、家でこっそり一人で歌えばいいよね。歌います!
なんか、また思い出したことがあったら書いていきます。
KANくん、バイバイまたね。Au revoir.
* * *
そういえばここ毎年、KANくんとは偶然、使ってる手帳が一緒でした。モレスキンの星の王子様シリーズ。2024年版を買おうとしたら星の王子様のデザインがなくなってた。星の王子様、いなくなっちゃった(え?)。
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