『善の研究』とわたし
【2017.6.20 Facebookより】
西田幾多郎の『善の研究』を読みたい。
日本の哲学の古典と言われる、アレである。
と、いきなりFacebookに投稿したところでこんな声が聞こえる。
「じゃあ読めよ」
「そんなことわざわざ投稿するなよ」
聞こえるが、事はそう単純ではない。
確かに「¥108-」という値札のついた岩波文庫は手許にある。それも5年ほど前から。読もうと試みたことも一度や二度ではない。
難解なのである。
ちっとも面白くないのである。
毎回毎回今度こそ、と思いながら読み始め、そのたびに挫折し、いつのまにかもっと簡単で面白い本を読みだしている。
さらに、高校時代にブックオフの魔女にかけられた「1冊読み終わると新しい本を2冊買ってしまう呪い」のおかげで自宅の本は増え続け、『善の研究』は本棚の奥深くに潜っていく。
*
こんな声も聞こえる。
「じゃ、読まなくていいじゃねえか」
「たぶん役立たないよ」
確かに、読んだからといって直ちに役に立つことはなさそうではある。
岩波の表紙を見ると「知識・道徳・宗教の一切を基礎づけようとした。」と書いてある。
今のところ日々の生活の中で「ああ、こんなとき知識と道徳と宗教とを基礎づけられたらなあ!」と思ったことはないし、これから先もないだろう(たぶん)。
聞くところによると『善の研究』は旧制高校の生徒必読の書だったそうである。もしも役立つことが書いてあったなら、世の中はもう少しマシになっていたはずである。
だからといって「一見役に立たない教養を深める、これが豊かな生活云々」とかいう教養主義に与するわけでもない。
単に読んだという経験が欲しいのだ。
「あの『善の研究』を読みきった森田です。」といいたいのだ。恰好いいじゃないか。
*
いままでも読むために色々な試みをしてきた。
わからなくても先に進むこと、
逆にじっくりと読むこと、
解説書を先に読んでみること、など。
いずれも上手くいかなかった。
わからなくても先に進んでみたら、残してきた疑問符が背中に積み重なって前進不能になった。
逆にじっくりと読んでみたら、私の両眼は同じ行を延々とタテ往復するだけになってしまった。
解説書を先に読もうとしたが、そもそもそちらも難しい。
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このままいくと、私の臨終の際には
「あ、そういや『善の研究』結局読まなかったな…」という思いが一瞬心をよぎるような気がする。
それでも別にいいっちゃいいのだが、やはり読まないで終わるよりは読んで終わりたいのである。