1000円カット考

【2020.1.31 某業界会報より】

 生来、見た目に頓着を持たない。学生の頃には袖の擦り切れた服を着て、犬の死んだののようなカバンを持って学校に通っていた。人様のお目にかかる商売に就いて多少は気を配るようになったが、それでも見た目に掛ける時間とお金はなるべく少ないほうが良い。


 東京で働いていた時分、家人の勧めで一回6500円くらいする床屋(サロンというのか)に通っていたこともある。しかし、2、3カ月に一度の6500円はどう考えても高いし、舌を噛みそうな名前のシャンプーの購入を薦めてくる。そのカット前のジャスミンティーはいらないから300円値引きしてくれ。

 そんなわけで早々に1000円カットに切り替えたのだがとても良い按配である。
入店すると「今入った方は3番へどうぞ」と椅子の番号を指定される。名前を告げての予約などは存在しない。ひとたび入店すれば我々のアイデンティティは椅子の並びに依存するのだ。毛刈りの順番を待つヒツジがごとく。


「どうしましょうか。」「3cmほど、耳に掛かるくらいで。」最小限の会話である。俳句のようでもあり、水墨画でもある。6500円のサロンで交わされる、互いのことに実は一毛も興味が無いことを前提としてなされる空々しい世間話とは大違いである。


おもむろに散髪が始まる。ハサミは止まることなく、時折髪を引っ張られるが、あくまで許容範囲内の痛みである。椅子の番号を指定された瞬間から我々は毛を刈られるヒツジなのだ。ヒツジは文句を言わない。


15分弱ですべては完了する。仕上がりは大方の予想通り値段相応である。
 これが予想よりも良い出来ならば「1000円なのに!」と歓喜できるし、予想よりも悪い出来なら「1000円だもの。」と納得することが出来る。評価は加点法なのだ。加点法は心を豊かにする。

 翻って、店員の立場から考えると、「1000円だからそこまで丁寧でなくていいや」くらいは思っているだろうが「1000円だからわざと変にしちゃえ」とは思っていないだろう。
むしろ、限られた時間の中で、出来る限りは綺麗に仕上げようと思ってくれているようだ。本来は雑でもいいところを綺麗にしてくれているのだ。流れるような作業の中、店員が少しだけ工夫してくれると嬉しくなる。それは「1000円もらって髪を切る」という契約上の義務から離れた人間の純粋な善意である。


1000円カットは旧来の「床屋さん」と比べるといかにも商業的・非人間的に見える業態であるが、経済的合理性を追求する業態だけにかえって働いている人間の、濾過された情を純粋に感じられる部分もあるのである。

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