映画館で見ない話
【2020.1.31 某業界会報より】
映画館に行くことがない。
直近で観たのはたしか『千と千尋』であるからもう20年弱である。それも親に連れられて行ったものなので自発的に映画を観た経験は無いことになる。なぜこうも映画館に行かないのか。原因を考えてみることにする。
映画館に行くと途中で出ることはできない。最低でも2時間はそこに居なくてはいけない。2時間くらいは家のプランターにいつの間にか生えてきたキノコの名前を調べている間に平気で過ぎてしまう(実話)ので、そこまで時間を大切に生きているわけではないと思う。
怖いのは確実性である。13時30分に映画館に入った時点で、15時30分までの拘束が確定してしまう確実性である。
映画には起承転結があり、2時間で世界観を説明して、ドラマチックな出来事が起こり、印象的なラストで終わらなければならない。2時間で「銀幕スターから女性を預かり、郷里に連れて帰り、池田屋階段落ちをして、子供が無事生まれる」のだ(何の映画でしょう?)。
2時間は長いが、一つの物語の起承転結とするにはあまりに慌ただしい。私たちの普段生きている時間の感覚で2時間というのは線ではなく、むしろ点なのではないだろうか。
この濃縮された時間感覚を醍醐味とする人もいるだろうが、慣れないとついていけない。私が見た映画はDVDやテレビの再放送などで細切れに(それこそ物語内での時間経過に近いほどの間をおいて)されているものばかりだ。
そもそも映像メディア作品が好きでないのかもしれない。アニメも見ないしドラマも見ない。一方で、ラジオ・落語などの音声メディアは好きだ。ラジオは高校生の頃からずっと聴いているし、東京にいた時分には寄席にも通っていた。
音声メディアは情報量が少ない分だけこちらに想像させる楽しみがある。ラジオや落語で「ここに犬がいます」と言われれば、その犬がどんな大きさでどんな犬種なのかは自分で好きなように想像できる。柴犬でもいいし、シェパードでもいい。見たことも聞いたこともないようなカラフルで巨大な犬を考えてもいいのだ。
一方、映像の犬は、4Kになろうが8Kになろうが「映っているその犬そのもの」を超えることはできない。映像は想像をさせてくれない。映っている犬がどんなに愛くるしい動きをしたとしても、こちらが想像で創造した犬の魅力には適わないのだ。
映画館に行かないことは自分の中では「自動車の運転」「海外旅行」に並ぶ三大未経験である。ここまで来ると、どこまで未経験を貫けるか、ある意味楽しみでもある。