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仏法は元気なときに聞く(1)仏道はランニングである

坊さんの話はつまらん

私の友人が,「うちに来る坊さんはいつも同じ話ばかりでつまらん」と話してくれたことがあります。確かに,ご法話に限らず聞いている途中で「またこの話か…」「前にも聞いたな」という考えが頭をよぎると,急に聞く意欲がなくなってしまうことがあります(笑)

なぜ法話がつまらないと感じるのか?

お聴聞している方が,「僧侶の伝え方が悪い」と感じているのか,「仏法が根本的につまらない」と思っておられるのかを区別することが大切と思います。以前の記事でも申し上げましたように,仏教はおもしろおかしいとかではなく、どちらかといえばおもしろくもなんともない話の方が多いのではないでしょうか?

仏様の話は「真実の教え」だと私は考えています。「正しい」ことと「おもしろい」ことはイコールではないし,むしろ重なっている部分は少ないと思います。耳の痛いお話に遭遇することもあります。「おもしろい話が聞きたいのなら,吉本興業に行ってください」とおっしゃった先生もおられると聞いたことがあります。毎回同じ話,というのを肯定的にとらえるなら,真実をおとりつぎしているのですから,真実がころころ変わってはおかしいのではないでしょうか?

ただ,友人の感想はもっともで,「仏法はおもしろくもおかしくもない,真実の教えなので僧侶の伝え方に工夫が必要」と私は受けとめています。聞いている人を引きつけるテクニックとして,笑わせることも有効かもしれません。「おもしろいか,つまらないか」のと,「大切かどうか」というのは全く別の話であることを,繰り返し申し上げておきたいと思います。

健康でいられるときに仏法を求める

善導大師という,中国のお坊さんがいらっしゃいます。善導大師はご著述の「往生礼讃」で,

もろもろの衆等聞け。日没の無常の偈を説かん。
人間悤々として衆務を営み,年命の日夜に去ることを覚えず。
灯の風中にありて滅すること期しがたきがごとし。忙々たる六道に定趣なし。
いまだ解脱して苦海を出づることを得ず。いかんが安然として恐懼せざらん。
おのおの聞け。強健有力の時,自策自励して常住を求めよ。 本願寺出版社 浄土真宗聖典 七祖篇(註釈版)669頁

とお示しになっています。おじいさん,おばあさんになってからお寺に参りなさいとは書いてありません。元気で健康なときに常住の法,すなわち仏法を求めなさいと述べられています。

また,浄土真宗を爆発的に全国に広め「中興の祖」と呼ばれた本願寺第八世蓮如上人は,

(一〇二)
(略)…また,「仏法においては,明日ということがあってはならない。仏法のことは,急げ急げ」とに仰せになりました。 本願寺出版社 蓮如上人御一代記聞書 (現代語版) 77頁

とおっしゃったそうです。仏法を聞くチャンスは,もしかしたら今日しかないかもしれません。もし,今日から聞き始めたとしても,遅いとかいうことは全くありません。今日が一番若い日なのです。(ある医師の方の受け売り)

仏道はランニングである

少し前に(コロナウイルスが流行する前です),地域の方に誘っていただいてランニングを始めました。ランニングは楽しいですし,心肺機能や足腰を鍛え,免疫力を高めることにもつながると考えられます。しかし,病院に入院しておられる患者さんに「○○さん!ジョギングは体にいいですよ!走りにいきましょう!!」と言っても絶対にできないですし意味がありません。元気なときに実践しているから効果的なのであって,心身が弱っているときに初めて仏法を聞くのでは「ありがたい」というより「しんどい…」ほうが勝ってしまうと思います。

つらい思いをしているときには,いくら仏法が正しくて真実の教えでも受け止められないと思います。法話に対する満足度が低いのは,それだけ今多くの人が厳しい環境におかれていて,仏法を聞くような状態ではないからではないでしょうか?

格差や貧困が深刻化し,毎日苦しい生活をしている方が大勢いらっしゃいます。職場や学校でハラスメントや理不尽な目に遭っている方もたくさんおられると存じます。「平等に救ってくださる」「いつもみておられる」という言葉は到底受け入れられないものではないでしょうか?

まとめ(途中まで)

・仏法は決しておもしろおかしい話ではない
・「おもしろいかどうか」と「大切かどうか」は別の話
・元気なときに仏道を歩む。つらいとき,苦しいときに始めても不可能ではないが,ありがたさよりしんどさが勝ってしまう

次回は,仏道はランニングである,に続けて「お寺はジムである」について書かせていただこうと考えております。最後までお読みいただき,ありがとうございました。

合掌


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