依存症回復プログラムから考える劇場版スタァライト――「アタシ再生産」とは何だったのか
はじめに
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において、「アタシ再生産」は重要なキーワードであった。TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、TVシリーズ)では何度もバンクシーンが挿入され、第12話ではその掛け声と共に舞台の再生産が行われた。また、2020年に劇場公開された『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』(以下、ロンド・ロンド・ロンド)では、主要キャラクターである9人それぞれの「アタシ再生産」があることが演出で強調された。
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、劇場版)でも華恋はそれまでと同じレヴュー服を纏うが、TVシリーズおよびロンド・ロンド・ロンドで用いられたバンクシーンは使われることがなかった。
では、いかにして華恋は再生産されたのか。そして「アタシ再生産」とは何だったのか。本稿では、2つの書籍をもとにしながら劇場版スタァライトにおける「アタシ再生産」、つまりは僕たちが新たに生き直そうとすることについて考えてみたい。
高知東生『生き直す 私は一人ではない』
依存症から回復するためのプログラムに「12ステップ」というものがある。このプログラムは1930年代にアメリカのアルコール依存症当事者らによって作られ、今では世界中で広く活用されている。自分は依存症でその依存のために生活が立ち行かなくなっている、と自身で認めることからステップはスタートする。この療法は必ずしも依存症者だけに適用されるものではなく、あらゆる原因で生きづらさを抱えている人達、現状を変えたい人達の助けにもなっている(※1)。
俳優の高知東生は、2016年に覚醒剤と大麻所持の容疑で逮捕された。薬物依存から抜け出すため、高知は依存症自助グループに参加するようになり、12ステップを実践していく。2020年には自叙伝『生き直す 私は一人ではない』を出版し、現在は俳優業を再開させながら依存症の啓発や予防教育に関わっている。12ステップを順に進めていた時のことを著書内で次のように語っている。
高知曰く、12ステップのステップ4では「棚卸し」と呼ばれる過去を振り返る作業を行い、ステップ5ではそれを他者に開示するということだ。著書の中では、任侠の子としての生活、母親の自殺、東京での成り上がりや二度の結婚、そして薬物依存に至るまでの人生が包み隠さず語られている。自叙伝の出版も高知にとっては回復プログラムの実践の一部なのだろう。
ここで一度スタァライトに戻ってこよう。劇場版での華恋は、自分がどこに立っているのか、どこへ向かえばいいのかも分からず、ただ茫然と砂漠を彷徨っていた。覚悟を決めた舞台少女らによる激しいレヴューの幕間で僕たちが観ていた華恋の過去は、彼女自身による「棚卸し」だったのではないだろうか。そして、棚から卸したものを誰かに見せて話すところまでが重要なステップワークだとするならば、僕たちが劇場版を見届けることは華恋の再生産のプロセスに大きな意味を持っていたといえる。
(※1)もし興味があれば以下の動画を参考に。12ステップについてさくっと知るには分かりやすく、高知のyoutubeチャンネルでもある。
たかりこチャンネル『12ステップは本当に200種類もあるのか!?探してみた!』
飯田博久『とらえなおし』
次に、12ステップでいうところの「棚卸し」を独自の手法とルールで行い、それを記録したのが飯田博久の『とらえなおし』である。
飯田は3人の人間を殺害し、1989年の無期刑確定後、無期刑囚として現在も宮城刑務所に収容されている。幼少期の家庭内暴力、病院での性被害、度重なる交通事故、母親との近親相姦、ヤクザ組織との関わり、窃盗等無数の犯罪。24歳の時、命令に従う形で1件目の殺人を犯し、約2年後の1973年に2件目、そして同年逮捕される。このような短文でまとめてしまうことが憚られるほどの壮絶な生い立ちである。
『とらえなおし』は一般に流通している書籍ではないため、入手することはかなわない。批評家の大澤信亮による『非人間』で大きく取り扱われているのでそこから一部を引用する。孫引きとなるがご容赦願いたい。なお、再引用であることを明示するため、『とらえなおし』本文は〈〉で囲う。
『とらえなおし』は、その副題でもある「共に生きる関係の上で生じる関係障害からの解放」を目指した実践的プログラムだと大澤は言う(※2)。さらに、大澤がこれまで読んできた中で唯一とも思える、殺人者が正面から自分自身を内省した本だとも述べている。そのプログラムの内容は、前述した12ステップの「棚卸し」とよく似ている。
簡潔に言うと、「とらえなおし」の方法とは「自分史を書く」ということだ。それは「棚卸し」と同じく自分の過去と向き合う作業であり、今の自分を変えてより良く生きることを目指す試みである。
一般読者が『とらえなおし』を手にすることは困難という理由からか、『非人間』では飯田が「とらえなおし」のルールに則って書き上げた過去の想起をかなりの分量で載せている。措置入院中に3人の男らに強姦された時のことをとらえなおした文章では、自分の身に起こった出来事と湧き上がる感情、身体の反応が、鈍くて重たい痛みと熱を帯びて綴られている。それはあまりにも生々しく、息が、汗が、薄い紙を通じてこちらにも伝わってくるようである。殺害の場面を記した文章においても同様だ(※3)。
また、「とらえなおし」にはここでは全てを説明できないほど詳細なルールと必要な手順がある。そのルールの1つが、「自分でもよくわからないことは自分なりに定義する」というものだ(※4)。
ここでまたスタァライトに戻ってくるとしよう。ひかりがロンドンに行ってしまうことを公園で泣いて悲しがった幼い華恋。このシーンはTVシリーズと劇場版の両方で描かれるが、遊具の配置や2人の立ち位置は全く異なっている。だが劇場版でのこの描写が華恋自身による想起なのだとしたら、TVシリーズと違いが生まれることはおかしなことではない。記憶や思い出とはあやふやなものであり、僕たちは起こった出来事を正しく覚えておくことはできない。曖昧な過去も現在の自分なりに誠実に捉え、自身の内側から形として取り出す。そういった作業が「とらえなおし」では重要とされている。
(※2)大澤信亮「非人間」『群像』第75巻第10号、2020、p.220,221
(※3)ただし、殺害の過程をとらえなおした文章は強姦被害を受けた時のものよりも描写が希薄であり、飯田の心の動きがあまり語られていないと大澤は指摘している。また飯田自身もそれを自覚しており、そこにこそ問題があると考えている。(※4)大澤信亮「非人間」『群像』第75巻第10号、2020、p.222
「アタシ再生産」に伴うもの
ひかりとの出会いから今に至るまで、劇場版を通して華恋はその人生に1つの道筋を作った。自身の過去を掬い上げ、まるで粘土をこねてヒトの形を作るかのように、人間性を纏った愛城華恋を形成していった。キリンの言った「役作り」とはまさに、華恋が自分史を作り上げ自己を生まれ変わらせる準備ができるまでの過程を指している。それは「棚卸し」とも「とらえなおし」とも言うことができ、運命と現在を接続する作業だ。自分が今立っている場所を鮮明にし、その先へと進む理由を明らかにする。
そして華恋は再生産の中で、丁寧に作り上げた自分史を燃やすという行動をとる。過去は死からの再生に必要な燃料となり、その燃焼は次の舞台へと進む意志をブーストするものだった。だがそこでは彼女の痛みも同時に表現されていたのではないだろうか。
TVシリーズ第2話で、華恋は「一度で終わりなんかじゃない」「私たちは何度だって舞台に立てる」と言いながら純那の星を弾く。また、第12話では「奪われたって終わりじゃない」「なくしたってキラめきは消えない」と運命の舞台を再生産させもした。
ここで僕が考えたいのは、果たして人生とはそう簡単にいくだろうかということだ。
TVシリーズでの華恋は、運命の象徴でもある髪飾りを燃料としてレヴューへと挑む。だが、無機質な空間で機械によってレヴュー服が大量生産される様は、ただ一人の新しい自分に生まれ変わるというオーダーメイド的思想とは正反対にも思えた。繰り返し挿入されるそのバンクシーンは、愛城華恋というキャラクターの原動力である「ひかりと一緒にスタァになる」という使命を彼女に再認識させ、再生産の度に運命への執着を強めるはたらきを持っていたようでもあった。
劇場版では、TVシリーズで与えられた役の先にある「私だけの舞台」を探す必要があったように、華恋はTVシリーズとは異なる「私だけの再生産」も同時に見つけなくてはならなかった。前述したとおり、それは自身の過去と向き合うことで達成される。しかし、キャラクターとしての華恋が決められた台本のない物語のその先へ進もうとするならば、僕たちの人生と同じように当然そこには葛藤や苦悩が生じるはずだ。
高知はステップ4、5がきつい作業であったことを記しており、著書の中では過去を振り返る辛さや、プログラムの進行をサポートしてくれていた田中紀子氏との衝突についても書いている。飯田も同様で、自分が犯した罪から逃げずに向き合い続ける苦しみは相当のものだろう。
華恋は依存症ではないし、僕たちは連続殺人者でもない。
だが人が自身を見返し生き直そうとする時、彼らと同じようにそれぞれの壁が立ちはだかり、大小あれど何らかの覚悟が必要になることはきっとあなたにも想像できるはずだ。
赤々と燃えながら思い出を焼き尽くしたあの炎は、華恋が先に進むための確かな希望でありながら、新たな自分への生まれ変わりに伴う痛みでもあったのだ。
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の再生産
劇場版での全てのレヴューはどちらか一方がもう一方を認めた時に決着がついている。華恋とひかりにしても同様だ。「アタシ再生産」によって舞台へと帰ってこられた華恋は、ひかりのキラめきにどうしようもなく目を奪われている自分に気づく。ひかりの短剣が華恋の胸を貫くシーンは、1つの肉体を持ってそこに存在している華恋を確かに感じさせる。
そして華恋が最後のセリフを口にすることでレヴュースタァライトは終演を迎える。それは、「輝くスタァに、2人で」という運命から解放されることも同時に意味している。
『戯曲 スタァライト』は本来、大切な相手と離れ離れになってしまう悲劇の物語だった。劇場版でのレヴューが終わると9人はそれぞれ別の道へと進む。ひかりが華恋の前で言い放った「舞台の上にスタァはひとり」、華恋がひかりに告げた「私もひかりに負けたくない」。お互いのこの決定的な台詞は2人で誓い合ったはずの運命を否定し、『戯曲 スタァライト』のごとく離れ離れの結末にしてしまう。
だが異なるところがある。
それは悲劇で終わる物語ではなく、彼女らがこれから始める希望に満ちた物語だということだ。
TVシリーズでは「スタァライトは必ず別れる悲劇 でもそうじゃなかった結末もあるはず」という華恋の台詞と共に舞台は変革され、「誰も別れることはなく悲劇ではない物語」として幸せな終幕を迎えた。そしてこの劇場版では「必ず別れる結末でありながら悲劇ではない物語」をやってみせた。
基となる物語の大きな枠組みを崩すことなく脚本を更新する。それはアタシがアタシの同一性を保ちながら新たに生まれ変わることと同義であり、すなわち作品自体が「アタシ再生産」と同じ構造になっている。
劇場版はワイルドスクリーンバロックを副題としてもよかったはずだ。ロンド・ロンド・ロンドが先に公開されていることもあり、むしろその方が自然とも思える。それでも余計なタイトルが加えられなかったのは、この劇場版がTVシリーズからの続編でも第二部でも後日談でもなく、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語を再生産するものだったからなのだろう。
おわりに
時に僕はTVシリーズ第7話で聖翔音楽学園を去った顔も知らぬ舞台少女らのことを考える。
彼女らは退学後、新たな環境で再スタートを切ることができただろうか。再生産には苦しみが伴うのだとしても、僕たちはきっと人生をやり直せるし、華恋が言うように何度だって舞台に立てるのだということを最後に強調しておきたい。
これを読むあなたがいつか何かに挫折した時、「アタシ再生産」が必要になった時、もしロケットエンジンが手に入らなければ本稿で紹介した書籍が役立つと幸いだ。
◆本稿はこちらの合同誌に載せていただいています。
◆noteもあります。
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