瞑想などの精神的諸技法の分類・図式化
「世界の瞑想法」に書いた文章を元に、大きく加筆した投稿です。
瞑想法、夢見の技術、心理療法、魔術など、様々な精神技術に関して、それぞれの本質と全体像を分かりやすく理解するために、私なりに、ざっくりと、分類して図示してみます。
ただ、実際には、一つの言葉でくくられる精神技術、瞑想法にも、その過程にともなって、いくつかの側面があったりしますが。
また、今回は、図示がテーマなので、各技術の背景にある思想の異同には焦点を当てません。
2つの軸
分類、チャート化するに当たって、2つの軸を設定して考えました。
一つの軸(横軸)は、「操作的」⇔「自然的」の軸です。
「操作的」は、「作為的」、「介入的」、「制御的」とも表現できますが、心を意図してコントロールしたり、変える方法です。
それに対して「自然的」は、「自発的」、「無作為的」とも表現できますが、意図せずに、なんらかの心が自然に生まれ、変化するままになるように仕向ける方法です。
「操作的」な技術は、何らかの目的のための「方法的」なものであるのに対して、「自然的」な技術はその状態自体が「目的的」なものです。
もう一つの軸(縦軸)は、「意識化」⇔「変性意識化」です。
「意識化」は、心などの対象を観察して、それを「意識化」するという性質が重要な方法です。
それに対して、「変性意識化」は、日常とは異なる意識状態になることが重要な方法です。
ただ、どの精神技術にも、程度の差はあれ、「変性意識」になるという側面がありますし、また、「意識化」するという側面もあります。
ですから、どちらに焦点があり、重視されるかによって分類します。
この2つの軸を使って、瞑想や精神技術の「大きな種類」を配置すると、以下のようになります。
もう少し詳しく個々の瞑想法や技術を配置すると、次のようになります。
以下、第3象限→第2象限→第4象限→第1象限の順に説明します。
第3象限(変性意識化×操作的)
第3象限は、非日常的な「変性意識」の状態に入り、心を意図的に「操作」して、特定のあり方にする、変える技術です。
集中する瞑想である「サマタ瞑想(止)」、イメージを使う精神技術である「観相法」、「イメージ療法」、気をコントロールする瞑想である密教の「究竟次第」、ヨガの「クンダリニー・ヨガ」、仙道の「内丹法」などがこれに当たります。
仏教の「サマタ瞑想(止)」は、何らかの心の対象に集中することで、心を静めたり、集中力を養ったり、教義を体得したり、特定の心を成長させたりする技術です。
仏教の瞑想は、基本的には「サマタ(止)」から「ヴィパッサナー(観)」へ進みます。
これは、まず、集中力を高めて「三昧」に至る「変性意識」状態に入り、その後にその集中力を利用して真理を観察する瞑想に移るのです。
仏教各派が行う「慈悲の瞑想」も「サマタ瞑想(止)」の一種です。
「ヨガ・スートラ」では、第6支から8支まで、つまり、対象に集中する「凝念(ダラーナ)」、一面的にそれを持続する「静慮(ディヤーナ・禅・メディテーション)」、対象に一体化する「等持(サマディー・三昧・コンテンプレイション)」が、仏教の「サマタ瞑想(止)」に当たります。
これら3段階をまとめて「サンマヤ(綜制)」と呼びます。
密教などが行う「観想法」は、イメージを現実であるかのように意図的に思い描く瞑想法です。
主に、マンダラなどの象徴性の高いイメージを作為してそれを対象にします。
この技術は、後期密教の「生起次第」として総合されます。
「観想法」は、道教では「存思」、西洋魔術では「視覚化(イメージ喚起)」などと呼びます。
目的としては、やはり、教義を体得したり、特定の心を成長させたりするのですが、夢のような意識状態で行い、無意識を通して心を変化させる傾向が高い方法です。
ただ、密教の「観想法」では、最終的には観想したイメージを「自然」に変化させることも行うので、この段階では第4象限の技術になります。
「魔術」は、象徴体系を無意識に形成し、それを操作する技術です。
「魔術」の修行や実践にける瞑想的技術は、主に、特定の心を成長させたり、無意識に特定の活動をさせるために行います。
「魔術」では「視覚化」が基本の技術ですが、これは「観想」です。
それに限らず、基本的に「魔術」の技術は密教の技術と共通しています。
心理療法の「イメージ療法(暗示)」も、「観想法」に類した技術です。
これは、トラウマをなくすために記憶を書き変えたり、成長目標を達成するために目標イメージを描くためにも使います。
ネオ・シャーマニズムのドン・ミゲル・ルイスが「棚卸し」と呼ぶ方法は、過去の記憶を白昼夢のような「変性意識」の状態で、再体験しながらそれを書き換える方法です。
これもこの象限の技術です。
密教やタントラ、仙道(道教)、西洋魔術では、プラーナ(気、エーテル)や「ビンドゥ(心滴)」を「操作」する瞑想法を行います。
後期密教では「究竟次第」として総合されます。
ヒンドゥー系では、「クンダリニー・ヨガ」や、「アムリタ(甘露)」を飲むヨガ、「ヴィパリータ(逆行)」のヨガがこれに当たります。
また、中国道教の仙道では「命功」、あるいは「内丹」と呼びます。
西洋魔術では、ゴールデンドーン系の「中央の柱」などで使います。
これらは、初歩の段階では、気功のように、日常に近い意識状態で行う場合もありますが、変性意識状態で行いますので、この象限の技術です。
第2象限(意識化×操作的)
第2象限は、様々な心を「意識化」して、それを意図的に「操作」して変化させようとする技術です。
観察する瞑想である「ヴィパッサナー(観)」、グルジェフの「自己想起」、ネオ・シャーマニズムの「ストーキング」などがこれに当たります。
仏教の「ヴィパッサナー瞑想(観)」は、内外の真理を観察する瞑想法です。
これには、観察する対象を決めてそれに集中して観察する方法と、集中する中心対象(メディテーション・アンカー)を決めて、それに集中しながらも観察するテーマが生じればそれを観察する方法と、集中する中心対象も観察するテーマの対象も定めずに、その都度、意識に昇ったものを観察する方法があります。
これらの方法には、心を意図的にコントロールする「操作性」や、生じた心を「意識化」する性質があります。
そして、観察した後、自分の誤った認識(対象)を自覚することで、その偽りの対象への執着を失くします。
認識と執着などを放棄する点にも「操作性」があります。
グルジェフの「自己想起」と呼ばれる方法も、ヴィパッサナーに似ていて、自分の現在の心のあり方を「意識化」し、それを正しいエネルギーの使い方に変容させるので、第2象限の技術です。
ネオ・シャーマニズムのドン・ミゲル・ルイスが「ストーキング」と呼ぶ方法も、現在の自分の心を「意識化」し、それを開放するように変化させる方法です。
第4象限(変性意識化×自然的)
第4象限は、「変性意識」状態に入ってそこで現れた心や、夢見の意識に入ってそこで現れた夢を自発的に発展させ、「自然」に変化させる技術です。
広義の「夢見の技術」がこれに当たります。
具体的には、心理療法の「能動的想像力」、「フォーカシング」、西洋魔術の「パス・ワーキング」などがこれに当たります。
心理療法は基本的に意識化した無意識的な心を受け入れることで治療するものが多いので、これらは「自然的」な技術です。
療法によって、その「意識化」を、どの程度、日常意識に近いところで行う(第1象限)か、「変性意識」の領域で行うか(第4象限)の違いがあります。
フロイトの精神分析学は、「自由連想」などを使って無意識を意識化し、それを受け入れます。
「自由連想」や夢を思い出すとった方法は、比較的日常に近い意識です。
ですから、第1象限と第4象限の間くらいでしょう。
ですが、ユンクの「能動的想像力」は、これを「白昼夢」のような意識状態で行うので、一種の「夢見の技術」です。
しかも、この意識化の対象が元型的なものであるので、「変性意識」状態だと言えます。
つまり、第4象限の技術です
心理療法の「フォーカシング」は、言葉やイメージになる以前の雰囲気的なものを対象にしますが、これらも広義の夢の意識です。
「プロセス指向心理学」では、夢の意識状態を対象とした「ドリーム・ワーク」だけではなく、さらに深い直観の意識状態にも入る「センシェント・ワーク」も行います。
そして、日常的な意識状態の間、つまり、第4象限と第1象限を行き来することを目指します。
心理療法が治療的意識を持って行われることも多いのに対して、シャーマニズム、ネオ・シャーマニズムなどで行われる「夢見の技術」は、夢を通して、心の成長を目指すことが重視されます。
西洋魔術の「パスワーキング」も一種の夢見の技術で、象徴体系を利用して、一定の方向性で夢見を行い、象徴を無意識に打ち立てて、特定の能力を成長させます。
第1象限(意識化×自然的)
第1象限は、あるがままの心を「意識」することで、それを「自然」な状態のうちに、変化・発展させようとする技術です。
自然な心のありようを、信じ、重視する思想がもとになっています。
「変性意識」状態になることが求められることもありますが、そのことよりも「意識化」することに焦点があります。
具体的には、仏教扇最奥義の「ゾクチェン」などがこれに当たります。
カウンセリングの「クライアント中心療法」は、比較的日常意識に近いところで、自分の感情などを自覚し、基本的にはそれを受け入れますので、一応、第1象限の技術です。
ただ、その「自然」は、習慣的に限定されたものにすぎませんが。
一人でこの技術を使うことを、私は「セルフ・カウンセリング」と呼んでいて、これは第1象限の技術になります。
仏教最奥義の「ゾクチェン」の瞑想では、最初は、概念やイメージなどの表象をなくし、その無の状態を「意識化」します。
この段階は、「変性意識化×操作的」なので、第3象限です。
ですが、次に、概念を止める「操作性」をなくし、「自然」に概念が現れることを「意識化」し、その現れたものを自由にします。
さらにその後は、日常の中でもその「意識化×自然的」の状態を継続します。
ですからこれら段階は、第4象限を経て、第1象限に至ります。
以上です。
*瞑想法を「集中する瞑想」、「観察する瞑想」、「イメージする瞑想」、「気をコントロールする瞑想」、「あるがままの瞑想」の5つに分けて考えた下の投稿もご参照ください。
*私が考えた、対象との向き合い方を変える一連の瞑想法については下の投稿もご参照ください。
これは、人格や価値観を偏らせることなく瞑想を行うための基礎的訓練として考えたものです。