知恵を獲得する英雄、不死を探求する英雄
「知恵の獲得」、「不死の探求」に関わるいくつかの有名な神話を比較して解釈します。
扱うのは、旧約聖書の創世記、ゲルマン・北欧のヴォータン=オーディン神話、シュメールのギルガメッシュ神話、ギリシャのプロメテウスとテセウス、そして、ヘラクレスの神話です。
「知恵の獲得」=「死の発生」と「不死の探求」の2段階
「知恵」には、まったく対照的な2つの種類があります。
「言語的な知恵」と、「直観的な知恵」です。
一般に、多くの神話では、「言語的な知恵」の獲得は、「文化」の獲得や、「成人」と同種のテーマであり、象徴的にほぼ等価です。
人間全体の問題としては、「言語的な知恵」の獲得は、「文化」の獲得として、「文化英雄」と呼ばれる、始祖的な人物によってなされます。
ですが、個人のレベルでは、「言語的な知恵」の獲得は、「成人」つまり、「社会的人格」、「自我」の獲得を意味します。
これは、同時に、無意識や感情の抑圧的な制御の獲得でもあります。
これらのテーマは、「知恵の樹の実」を食べる、「火の獲得」、「竜退治(ペルセウス・アンドロメダ型神話)」といった行為のモチーフで表現されます。
また、これらのテーマは、「死の発生」や「失楽園」というテーマとも重なります。
なぜなら、「言語的な知恵」の獲得は、意識と無意識の分離をもたらし、無意識の創造性=生命力を失う結果にもなるからです。
それに対して、「直観的な知恵」の獲得は、「若返り」や「不死の獲得」につながるテーマであり、象徴的にほぼ等価です。
なぜなら、「直観的な知恵」の獲得は、意識と無意識の統合、無意識の創造性=生命力の獲得へ至ることを意味するからです
ですから、いくつかの神話は、「言語的な知恵」の獲得がもたらした「死の発生」などの否定的な問題を、「直観的な知恵」を獲得することで解決し、「不死の探求」に出る、という英雄の物語を語ります。
ただし、この「不死の探求」は、成功するとは限りません。
人間は死すべきものであるという現実があるからです。
「言語的な知恵」を獲得する者が「文化英雄」と呼ばれるのに対して、「直観的な知恵」を獲得する者は、「宗教的英雄」と呼ぶべき存在です。
前者は、「自我の確立」、後者は「自己超越」、さらには「自己放棄」をなす英雄です。
後者のテーマは、「生命の樹の実」を食べる、「生命の水」を飲む、「自らを神に捧げる」、「火による浄化」、「竜を生け捕る(手懐ける、助ける)」といった行為のモチーフで表現されます。
一般に、多くの神話で「直観的な知恵」の守護者は「へビ」やそれに類する「竜」などです。
「ヘビ」は地に潜り(無意識を知る)、脱皮する(不死性を持つ)からです。
まとめると次のようになります。
A:文化英雄(自我の確立):言語的な知恵(文化の火)の獲得:死の発生
B:宗教的英雄(自己超越):直観的な知恵(生命の水)の獲得:若返り
C:不死の英雄(自己放棄):自己を犠牲にする(浄化の火) :不死
神話によっては、AからB、Cへという2-3段階の物語を語っていると解釈できるものがあります。
以下では、このA→B→Cという基本構図を前提にして、各神話の解釈をします。
ですが、AとB、Cの関係は、文化によって様々です。
B、Cを否定するような文化もあれば、最初からBを前提としてAと一体で語られる場合もあります。
ですから、各神話によって、それが語るものは異なります。
あらかじめ書いておくと、下記のように解釈します。
・旧約創世記:A→B・Cの否定
・ヴォータン=オーディン神話:B
・ギルガメッシュ神話:A→B・Cの失敗
・プロメテウス神話:A
・テセウス神話:A→B・Cの失敗
・ヘラクレスの神話:A→B→Cの成功
旧約創世記とヴォータン=オーディン神話は、Bに対する対照的な思想が読み取れます。
ギルガメッシュ神話には、A→B・Cの2段階が分かりやすく読み取れます。
ギリシャのヘラクレスの神話にも2-3段階を読み取れますが、Aを表現するプロメテウス神話と、B・Cの失敗を語るテセウス神話が、ヘラクレス神話とつなげられているので、両者を見てからヘラクレス神話を読むと、分かりやすくなります。
旧約創世記
最初に、「不死の探求」を行う英雄を排除した例として、旧約聖書の創世記の物語を取り上げます。
私にとっては、つまらない神話の典型です。
エデンの園にいたアダムとイブは、神の命令に背き、「ヘビ」の誘惑で「(善悪の)知恵の樹の実」を食べました。
これによって、恥を知るようになり、また、死すべき存在となりました。
これは、「言語的な知恵」=「文化」の獲得=「死の発生」のテーマです。
多くの神話では、「ヘビ」は「直観的な知恵」の守護者ですが、創世記では、「言語的な知恵」を与える者です。
神は、人間が「生命の樹の実」も食べて、永遠の命を得て、神のようになることを恐れ、二人をエデンから追放しました。
そして、「生命の樹の実」を「剣の炎」でケルビムに守らせます。
つまり、神は、人間から「直観的な知恵」の獲得を排除します。
ユダヤ・キリスト教の公教は、こういった「直観的な知恵」、「霊的な知恵」を否定し、無意識の創造性を否定する傾向が強い、特異な宗教です。
ちなみに、旧約では、何人もの預言者の物語を語りますし、その中には、エリヤのように昇天した預言者もいます。
彼らは、信仰によって「神の言葉」を聞きますが、その物語には、下記で紹介するような、「直観的な知恵」の獲得を表現する象徴性は読み取れません。
また、後述するように、メソポタミアの神話におけるノアに相当する人物は、その功績によって「不死」を獲得していますが、旧約のノアは長寿ではあっても、「不死」ではありません。
ですが、ユダヤ・キリスト教の秘教の伝統であるカバラでは、「生命の樹」の象徴体系を構成するセフィロートへの瞑想を行います。
これは、「生命の樹の実」を食べることと象徴的に等価です。
ヴォータン=オーディン神話
ゲルマン・北欧神話の主神であるヴォータン=オーディンの神話は、3度に渡る「直観的な知恵」を獲得を物語ます。
ヴォータン=オーディンは神であるという違いがありますが、これは旧約創世記の思想とは対照的です。
まず、ヴォータン=オーディンは、「ミーミルの泉」の水を飲んで「知恵」と魔術を得ますが、その代わりに片目を失います。
「ミーミルの泉」の水は、いわゆる「生命の水」にあたり、「生命の樹の実」の象徴的な等価物です。
片目を失うことは、開いた片目で現実世界=言語的秩序の世界を見ますが、失った片目では、無意識的な直観で世界を見ていることを表現します。
次に、「ユグドラシルの樹」で首を吊り、「グングニルの槍」に突き刺されて、9日間、自らを捧げて、「ルーン文字」の秘密を得ます。
「ルーン文字」は、「秘密の文字」という意味であり、その取得の方法からして、単なる「言語的な知恵」ではなく、「直観的な知恵」を表現する文字なのでしょう。
つまり、「直観的な知恵」が「文字」にまで具体化されました。
「ユグドラシルの樹」は、いわゆる「世界木(宇宙樹)」ですが、この物語では、「生命の樹」の等価物です。
エデンの「生命の樹」は「炎の剣」で守られていますが、ヴォータン=オーディンは、「グングニルの槍」で自らを犠牲にする点で、対照的です。
ヴォータン=オーディンが、苦行をし、自らの身を神に捧げることは、「言語的な知恵」の享受を否定し、無意識に返すことを示します。
最後に、ヴォータン=オーディンは、ヘビに変身して霧の巨人が隠し持つ「詩の蜜酒」を飲みます。
「詩」は「ルーン文字」と同様に、単なる「言語的な知恵」ではありません。
「詩の蜜酒」は、「ミーミルの泉」の水と同様に「生命の水」にあたり、「生命の樹の実」の等価物です。
こうして、「直観的な知恵」は、「文字」を経て、「詩」に具体化されました。
ヴォータン=オーディンがヘビに変身したことは、ヘビが「直観的な知恵」の守護者であるからです。
また、この時、ヴォータン=オーディンは、美青年に変身して、「詩の蜜酒」の番をしていた巨人の娘と3夜をともにして、「詩の蜜酒」を飲ませてもらいました。
これは一種の「聖婚」であり、「巨人の娘」も「生命の樹の実」の等価物です。
ヴォータン=オーディンは人間ではなく、主神なので、「不死の獲得」というテーマはありませんが、このように「直観的な知恵」の獲得については、繰り返し語られます。
ちなみに、人間の英雄を扱うゲルマン英雄伝説では、主なテーマはやはり「竜退治」です。
彼らは、それによって栄誉を得ますが、最終的には何らかの原因での悲劇的な死を迎えます。
例えば、ベーオウルフの場合は、老年になってから、竜の反撃に合って、相打ちになります。
これは「言語的な知恵」=「無意識と分離した自我」の限界を示します。
ギルガメッシュ神話
世界最古の叙事詩であるシュメールのギルガメッシュ神話は、「言語的な知恵」の獲得によって起こった不幸を語り、そこから「不死の探求」を行う物語です。
ですが、この探求は失敗に終わります。
女神と人間の間に生まれたギルガメッシュは、2/3が神、1/3人間でした。
このことは、天上、地上、冥界の3界のうち冥界に支配権が及ばない、つまり、「死すべき存在」であることを示しています。
また、1日の1/3を、意識を失って「眠る」存在であることも示しています。
ウルクの城主となったギルガメッシュは乱暴を働くようになったので、天神アヌは好敵手で獣のように毛むくじゃらのエンキドゥを作らせました。
ギルガメッシュはエンキドゥと闘うも、親友となると、乱暴をやめて、人々から愛されるようになりました。
ギルガメッシュが城主になったことは、「成人」がなされたこと、つまり、「言語的な知恵」=自我の獲得をしたことを示しています。
ですが、彼は利己的な人物でした。
これは、「言語的な知恵」=自我の獲得の否定面です。
エンキドゥは、ギルガメッシュの無意識的な半身であり、この半身を得ることで、ギルガメッシュは利己的な自我を克服しました。
ですが、ギルガメッシュは、エンキドゥと共に、北の杉の森にいる怪物フンババを退治すると、その罪でエンキドゥは死んでしまいます。
フンババは、エンキドゥと同じ、無意識的な半身だからです。
つまり、ギルガメッシュは、「言語的な知恵」=自我を獲得したものの、それによって「直観的な知恵」=無意識の創造性を殺してしまったのです。
これは「死の発生」と同じテーマであり、それは「言語的な知恵」の獲得の否定面です。
ギルガメッシュはエンキドゥ死に対面して悲しみ、「不死」を得たウトナピシュティムのところに、「不死の探求」の旅に出ます。
ウトナピシュティムは、エンリル神が6日7夜に渡る嵐によって「大洪水」を起こした時に、エア神の指示で船を作って、あらゆる動物を生き延びさせたことで、褒美として「不死」を得た人物です。
ウトナピシュティムは、旧約創世記のノアに当たりますが、先に書いたように、ノアの物語には、この「不死」のテーマはありません。
「大洪水」は、無意識が意識領域を覆い尽くすことを表現しますが、ウトナピシュティムがこれを生き残ったことは、意識と無意識の統合=「直観的な知恵」の獲得を意味します。
ですから、ウトナピシュティムはギルガメッシュに、「不死の獲得」のために6日7夜の間、「眠らない」ようにと課題を出しました。
「眠らない」ことは、意識を無意識領域にまで拡大することを象徴するので、「大洪水」を生き延びることと象徴的に等価です。
つまり、意識と無意識の統合=「直観的な知恵」の獲得を意味します。
ですが、ギルガメッシュは、この課題を果たせず、寝てしまいます。
ギルガメッシュは「不死の獲得」に失敗したのです。
ですが、ウトナピシュティムはギルガメッシュを憐れみ、代わりに「若返りの草」のありかを教えます。
ギルガメッシュは、「原初の海」に潜って、この草を取ることに成功します。
「海に潜る」ことは、「眠らない」ことに類似したテーマであり、意識を無意識領域にまで、一時的に拡大することを示します。
ですから、「直観的な知恵」の獲得を表現します。
ですが、ギルガメッシュは、帰途の途中、冷たい水の涌き出る泉で水浴した時に、「ヘビ」に「若返りの草」を盗まれてしまいます。
創世記の「ヘビ」と違って、この「ヘビ」は「直観的な知恵」の守護者です。
このことは、無意識領域で得たもの=「直観的な知恵」を、日常の領域にもたらすことなく、失ったことを示しています。
つまり、象徴的なイメージとして獲得したものを、現実世界で具体化できなかったのです。
あるいは、夢で得た直観を、起床してすぐ忘れてしまうことも似ています。
これは、ヴォータン=オーディンが、「直観的な知恵」を「文字」、「詩」にまで具体化したことと、対照的です。
ギルガメッシュの2度に渡る失敗は、現実の人間が「死すべき存在」であることを示すと同時に、「直観的な知恵」を得ること、それを現実に活かすことの困難さを表現しています。
プロメテウス神話
ギルガメッシュが「不死の獲得」に失敗したのに対して、ギリシャ神話のヘラクレスは、これに成功します。
ですが、ヘラクレスの物語の前に、プロメテウスとテセウスの物語があります。
プロメテウスは、「言語的な知恵」の獲得に関わる「文化英雄」であり、テセウスは「直観的な知恵」の獲得、「不死の探求」に失敗した英雄です。
そして、この二人を困難から救ったのが、ヘラクレスなのです。
プロメテウスはゼウスから「火」を盗みますが、これは「文化英雄」の典型的な物語です。
「火」=「文化」=「言語的な知恵」の獲得ですが、これは同時に、「失楽園」でもあります。
ですから、プロメテウスは、岩にしばられ、串刺しにされ、毎日、昼に大鷹に肝臓を食べられる、という罰を負います。
「毎日の昼に大鷹に肝臓を食べられる」というのは、なんとも強烈なテーマです。
これは「言語的な知恵」を得たために、生命力=無意識の創造性を失い続けることを表現しています。
これが「昼」であるのは、「昼」が言語的秩序=意識の時間だからです。
また、プロメテウスは、弟のエピメテウスに、外見だけが美しいパンドラを送りました。
パンドラが開いた箱からは、人に「死」をもたらす不幸が出てきました。
プロメテウス(あらかじめ考えるという意味の名)と弟のエピメテウス(後から考えるという意味の名)の関係は、ギルガメッシュとエンキドゥの関係と同じです。
つまり、エピメテウスは無意識的な半身です。
プロメテウスもエピメテウスを殺してしまうことになるのです。
外見だけが美しいパンドラは、外見上は真実に似た「言語的な知恵」の象徴的な等価物です。
そして、彼女が「死の発生」の原因となります。
テセウス神話
テセウスは、多くの山賊や怪物を殺しました。
これらは、「竜退治」=「成人」=「言語的な知恵の獲得」のテーマに属する物語です。
ですが、その中でも、プロクルステスを倒した物語には、異なるテーマがあります。
プロクルステスは、人を寝台に寝かせてそこからはみ出た部分を切り落としたり、逆に足なければ無理に体を伸ばしていました。
プロクルステスが表現するのは「偽の像に捕らわれる」というテーマです。
これは、現実(無意識)を言語に合わせて抑圧すること、あるいは、自己を自我のイメージに合わせて抑圧することを意味します。
ですから、テセウスがプロクルステスを退治したことは、「言語的な知恵」の否定面の克服を意味します。
ですが、その後の物語からすれば、これは、あくまでも、その探求、可能性を示しているにすぎないようです。
テセウスは、クレタ島の宮殿の地下迷路にいる半人半牛のミノタウロスを倒しました。
彼は、これをミノス王の娘のアリアドネの糸の導きによってなし、アリアドネを得ました。
ミノタウロスは、ミノス王がポセイドン神に捧げるべき牛を自分の物とした報いで、彼の妻が生んだ怪物です。
つまり、ミノタウロスは、利己的自我であるミノス王によって生み出された攻撃的な無意識(コンプレックス)です。
それは、「言語的な知恵」の否定的な産物であり、否定的な「無意識の半身」です。
テセウスは、一説によるとアリアドネから手渡された「短剣」で、別の説によると「素手」で、ミノタウロスを倒しました。
「文化英雄」は、「剣」によって怪物を倒します。
これは、「言語的な知恵(剣)」による、無意識(怪物)の抑圧的な制御を意味します。
これに対して、テセウスは、女性であるアリアドネの導きと、「剣」ではなく「短剣」、あるいは、「素手」で怪物を倒しました。
これは、「直観的な知恵(アリアドネの糸、短剣、素手)」によって、無意識(怪物)の創造性を得たことを示します。
ですが、テセウスは、アリアドネをギリシャにまで連れていくことができずに、ナクソス島に置き去りにします。
これは、ギルガメッシュが、「若返りの草」を得たものの、それを失ったことと同じテーマです。
つまり、日常生活にまでは、「直観的な知恵」=無意識の創造性を持ち込めなかったのです。
この原因は、ギルガメッシュがフンババを殺してしまったのと同じで、ミノタウロスを殺してしまったからかもしれません。
また、テセウスは、冥界に捕らわれたペルセポネを取り戻そうとしましたが、冥界王ハデスに動けなくされ、失敗しました。
ペルセポネを冥界から取り戻すことは、「死の克服」を意味します。
ですから、この物語は、テセウスが、「不死の獲得」にも失敗したことを意味します。
ギルガメッシュに神話で言えば、アリアドネは「若返りの草」、ペルセポネは「不死」に相当します。
ヘラクレス神話
プロメテウスの肝臓を食べる大鷹を射殺したのは、ヘラクレスです。
また、ハデスによって動けなくされたテセウスを助けたのもヘラクレスです。
このことは、ヘラクレスが、「言語的な知恵」がもたらす否定面を克服する英雄、そして、「不死を獲得」する英雄であることを示しています。
ヘラクレスは、赤ん坊の時に蛇を、少年の時にキタイローン山のライオンを殺しました。
これは「竜退治」のテーマに属する物語であり、彼の「成人」=「自我の獲得」=「言語的な知恵の獲得」を示しています。
その後、ヘラクレスは、「12の偉業」を成し遂げました。
彼は、多くの敵、怪物と向き合ったのですが、それぞれの象徴性には違いがあります。
単に、「竜退治」に類する英雄譚と思えるものもありますが、それを越えるテーマを読み取ることができる偉業もあります。
偉業のいくつかは、「生け捕り」や「素手」で殺す行為であり、単純な「竜退治」=「剣による殺害」とは異なるテーマを含んでいます。
また、冥界や女神に関わる怪物と向かい合っていて、それらは単純な「竜」以上の存在と思えます。
ですから、これらの偉業は、「竜退治」としての無意識の抑圧的な制御ではなく、「竜の手なづけ」=無意識の解放的な利用と解釈することも可能です。
ですが、最後の2つの偉業と、ヘラクレスの最期は、明確に、「宗教的英雄」の行為、つまり、「直観的な知恵」と「不死」の獲得に関わります。
その11番目の偉業では、ヘラクレスは、太陽神ヘリオスが復活する場所で、世界の西端にある「ヘスペリスたちの園」で、「黄金のリンゴ」を奪いました。
「黄金のリンゴ」は、「生命の樹の実」の等価物です。
それが、太陽神の復活の場所にあることでも分かります。
「黄金のリンゴ」は、決して目を閉じない龍ラドンが守っていました。
ここには、ギルガメッシュ神話と同様の「眠らない」テーマがあります。
ヘラクレスがラドンを倒すか、眠らせたのは、このテーマを克服したことを示しています。
ただし、ヘラクレスは、「黄金のリンゴ」を自分で食べていません。
このことは、彼の利己的ではない性質を表現しています。
ヘラクレスが、プロメテウスの肝臓を食べる大鷹を射殺したのは、この時で、お礼にプロメテウスがアドバイスをしたという話もあります。
12番目の偉業では、ヘラクレスは、素手で、冥界の門番の犬、ケルベロスを捕まえることで、自由に冥界に出入りできるようになりました。
ペルセウスのところで書いたように、「素手」であることや、「生け捕る」ことは、「直観的な知恵」の獲得=無意識の開放的な利用を表現します。
自由に冥界に出入りできることは、意識と無意識の統合=「不死の獲得」に至る行為であることを表現します。
ヘラクレスが、ハデスによって動けなくされたテセウスを助けたのは、この時です。
そんなヘラクレスも最期を迎えます。
彼は、妻デイアネイラを襲ったケンタウロスを殺しましたが、毒であるその血を塗った服を着てしまい、死を覚悟します。
そして、彼は自らを生きながら火葬にしました。
すると、彼は子供のように若返ってオリンポスに昇天し、ヘラの娘と結婚して宮殿の支配者になり、「不死」を与えらました。
半獣半人のケンタウロスは、エンキドゥやエプメテウスと同様に、無意識的な半身です。
ヘラクレスは、半身を殺してしまったことで、苦しみます。
これまでに多くの敵を倒したこと、つまり、「言語的な知恵」を獲得したことの、遅れてきた結果なのかもしれません。
ですが、ヘラクレスが「自らを生きながら火葬にした」ことは、ヴォータン=オーディンが「ユグドラシルの樹」で自らを犠牲にして苦行をしたことと等価です。
「火による浄化」のテーマでもあります。
これは、「言語的な知恵」の獲得の否定面を克服したことを示します。
そのため、「不死」を与えられたのです。
*参考書
「聖書」(日本聖書協会)
「北欧神話物語」K・クロスリイ=ホランド(青土社)
「ギルガメッシュ叙事詩」月本昭男訳(岩波書店)
「ギリシアの神話 神々の時代」カール・ケレーニイ(中公文庫)
*ただし、解釈はすべて当ブログ主による
*タイトル画像は、ルーカス・クラーナハが描いたエデンの園 WIPIPEDIAより